[栃木県]小山市の参拝神社
- 橿原神社(栃木県小山市)
- 北飯田鹿島神社(栃木県小山市)
- 胸形神社(栃木県小山市)
- 篠塚稲荷神社(栃木県小山市)
- 高椅神社(栃木県小山市)
- 安房神社(栃木県小山市)
- 須賀神社(栃木県小山市)
- 間々田八幡宮(栃木県小山市)
- 網戸神社(栃木県小山市)
橿原神社(栃木県小山市)
神社名:橿原神社(かしはらじんじゃ)
祭 神:神日本磐余彦命
鎮座地:栃木県小山市羽川429
駐車場:境内
-橿原神社 案内板由緒-
往古、この地の氏神様は「星宮神社」であった。明治五年、敬神の念篤き氏子等が集い、九州は宮崎神宮より御神霊を勧請し、「橿原神社」と名を改め創建されたのが当社である。
以来、羽川駅・小金井宿・飯塚宿・半田村・三拝川岸村・川中子村・紫村・笹原新田村・国分村・柴村・荒井村・出井村の一駅・二宿九ヶ村の総鎮守(郷社)として崇め祀られてきた。しかし年月の推移、組織改変等により、羽川郷の氏神様となり、現在に至る。
明治三十九年四月二十五日汽車の飛び火により、神殿が炎上、灰燼に帰した。現在の御社殿は、大正三年四月再建したものである。
昭和四十七年国鉄新幹線が神社境内の東を通過のため西に移転等、大改築工事を行い、屋根は銅板葺きにて、昭和四十九年十一月二十四日完成し、現在に至る。
北飯田鹿島神社(栃木県小山市)
神社名:鹿島神社(かしまじんじゃ)
祭 神:武甕槌命
鎮座地:栃木県小山市北飯田109
-北飯田鹿島神社 栃木県神社誌由緒-
創建年月日不詳。明治四二年四月一六日、東京の無格社鹿島神社を合祀。境内摂社に、稲荷神社(稲倉魂神)、疱瘡神社(大国主命)を祀る。
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胸形神社(栃木県小山市)
下野国延喜式内社:胸形神社
神社名:胸形神社(むなかたじんじゃ)
祭 神:田心姫命 市杵島姫命 多岐津姫命
鎮座地:栃木県小山市寒川1730
御朱印:あり
駐車場:神社前に数台
-胸形神社 全国神社名鑑由緒-
延喜式内小社に列し、旧寒川郡の総社。中世以降衰微したが、弘化元年、社殿再建され神苑盛観に復し、近郷三八カ村の総鎮守と崇められた。明治五年郷社に列した。
-胸形神社のエノキ(天然記念物)-
エノキはニレ科の落葉高木で温帯・亜熱帯に広く分布する。日本では本州・四国・九州の平地・丘陵地に普通に生える。
古来、エノキには神霊が宿ると考えられ多くの伝説を生んできた。
胸形神社のエノキは御神木として代々保護の手が加えられ、美しい枝張り・樹形を保つ。
「栃木の名木百選」の一つにも選ばれている。地際は、巴波川の氾濫によって土砂が流失してか、見事な根張りをみせている。樹齢三百年以上と推定され、独特の風格を備えている。
平成六年(1994)、栃木県と小山市の補助を受け樹勢回復作業を行った。
樹高 −約二十三米
目通り−約六米
枝張り−東西約二十五米
南北約二十七米
篠塚稲荷神社(栃木県小山市)
神社名:篠塚稲荷神社(しのづかいなりじんじゃ)
祭 神:倉稲魂命 大山祇神 道祖神 軻遇突知神 菅原道真公
鎮座地:栃木県小山市大本735
駐車場:あり
-篠塚稲荷神社 全国神社名鑑由緒-
祖神は大己貴命他四柱を祀った大国社で、梶原景則小薬郷の城主となったとき、信田稲荷より猿田彦大神・大山祇神を勧請して篠塚稲荷大明神とした。大正九年神殿を再建遷宮した。旧村社。
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高椅神社(栃木県小山市)
下総国延喜式内社:高椅神社
神社名:高椅神社(たかはしじんじゃ)
祭 神:磐鹿六雁命 國常立尊 天鏡尊 天萬尊
配 神:木花咲耶姫命 経津主命 高龗神 火産霊命 豊受比売命
鎮座地:栃木県小山市高椅702
御朱印:あり
由緒書:あり
駐車場:あり
-高椅神社 由緒書-
○当社の創建は、景行天皇の四十一年、日本武尊が御東征のおり現在の白旗丘(当社北西約一粁)に御旗を立てられ、國常立尊、天鏡尊、天萬尊の三柱の神を勧請して戦勝を祈願されたのが起源であると伝えられる。
その後、天武天皇の十二年(684年)御祭神の後裔高橋朝臣が現在地に神社を建て、前記の三柱の神ニ氏祖磐鹿六雁命を合わせ鎮座し、高椅神社と尊称するに至った。
○磐鹿六雁命は、崇神天皇の御代、各地に派遣された四道将軍の一人である大彦命の御孫に当られる御方で、景行天皇が御皇子日本武尊の御東征の戦跡を御巡視なされた際、膳臣(かしわでのおみ)として当地までお供をなされたが、老齢のためお許しを得てこの地にとどまり、以後代々豪族としてこの地方を支配した。
天武天皇の十二年朝廷より「高橋朝臣」を賜り代々これを襲名した。
「高椅」の地名もこれよりとったという。
○後一條天皇の長元二年(1029年)社域に井戸を掘ったところ大きな鯉が出たため奇異であるとして、時の神主が都に参上、その由を奏上したところ、誠に霊異なことと思し召され、「日本一社禁鯉宮」の勅額を賜った。
以来氏子民は鯉を食うこと及び鯉絵のついた器物等の使用を禁じられたが、今日までこれを侵す者なく、鯉を食べないことは勿論、五月の鯉のぼりも立てない風習が現存している。
当社が「鯉の明神さま」と親しまれているのはこの由緒によるもので、境内の南端にある神池には氏子、崇敬者の奉納した鯉が多数放流されている。
○結城代々の城主の崇敬殊に厚く政朝、政直、政勝、晴朝、秀康の各城主よりの寄進状、祈願文、修業留等二十余通神納され現存する。
殊に秀康公が越前福井へ国替えになった後も代々例度の代参を欠かすことなく、明治維新まで続けられた。
明治五年郷社となり、同十年七月県社となる。
-高椅神社 楼門案内板-
結城城主水野氏の寄進による再建とされ、宝暦四年(1754)起工、明和七年(1770)竣功、工事に際しては領内の人夫三千九百余人が動員されたと伝えられる。
三間一戸の楼門であるが、一階は扉を設けず、正面両脇間には随身をまつる。前後を唐破風とした入母屋造りで、屋根は、かつて茅葺きであったものを現在は銅板葺きに改めている。組物は三手先、二階に切目縁を張り出して高欄をまわす。すべて円柱で、中央の二本のみを通し柱とする。
装飾彫刻も随所に見られ、木鼻を唐獅子の丸彫とするほか、欄間部分や妻飾りに透し彫が施されている。全体的に力強く、安定感もあり、典型的な江戸中期の楼門である。
安房神社(栃木県小山市)

下野国延喜式内社:阿房神社
神社名:安房神社(あわじんじゃ)
祭 神:天太玉命 菟道稚郎子
鎮座地:栃木県小山市粟宮16
御朱印:あり
由緒書:あり
駐車場:神社前の道路沿いに数台


-由緒-
当社は、創建は不詳であるが、伝承によると今から約2000年前の崇神天皇の御代に創建されたと言い伝えられています。
安房神社は延喜式内社として県内において古社です、西暦905〜927年に醐醍天皇の命により選定された延喜式の中の神名帳に記載されており、昔は国司が祭礼にお供えものをして参拝したと伝えられています。
下野國の南の守り神であったとも伝えられ、また旧間々田、大谷、小山一帯の総氏神と称えられ崇敬をされたとも言い伝えられています。
安房とは安全な土地と言えます、この地域は幸いに災害の少ない土地で、作物等も毎年平均的に収穫されていたように考えられます。特に粟の産地であったようです。最近まで粟は主食でした。
従って安全の神、豊作の神、それに建築の神、方位災難除けの神として長く信仰されています。
それに願掛けの神社としても崇敬されています。
-願掛けの神社と言われる由-
天慶2年、藤原秀郷公が平将門との戦に勝つ為祈願をし、みごとに戦勝したことにより、お礼に種々の寄進をし感謝し、その後永世主護神とし、秀郷公の子孫である小山公も代々崇敬したことによる。
須賀神社(栃木県小山市)

神社名:須賀神社(すがじんじゃ)
祭 神:素盞嗚命 大己貴命 誉田別命
鎮座地:栃木県小山市宮本町1-2-4
御朱印:あり
由緒書:あり
駐車場:神社右側に数十台

須賀神社公式サイト
-由緒-
当神社の創建は、藤原秀郷公が天慶の乱に際して、日夜素盞嗚命に戦勝を祈願し、これが成就したことにより、天慶三年(940)四月、京都の八坂神社(祇園社)から勧請し創祀した。当初は宇北山(現中久喜)にまつられたが、小山城築城に際し、城の鎮守と仰がれ、平治年間(1159〜60)当地へ遷座された。以来、小山六十六郷(小山市全域に野木町、国分寺町、下石橋、結城市小田林地区を含む)の総鎮守と仰がれる。
徳川家康公は、慶長五年(1600)七月、当神社境内で小山評定(軍議)を開き、参籠して関が原の戦勝を祈願した。祈願成就した事により、五十一石余の社領を寄進した。のち家康公の崇拝神社なる故をもって、日光東照宮造営の職人により、奉製された朱神輿が、当神社に奉納された。
昭和初期には、本殿、神輿殿、直会殿、大鳥居、手水舎、社務所などが竣工、同五十七年三月には、須賀神社会館が竣工オープンして、年中の諸行事や結婚式場として、利用されている。
平成二年四月に創建一〇五〇年大祭を斎行し、これを記念して神門廻廊造営奉賛会が設立され、記念事業に着手して、同八年五月、神門廻廊が竣工した。
参詣者は、小山六十六郷は勿論、広く県外がらも多く、初宮詣、交通安全、厄除、家内安全、学業成就、商売繁昌、病気平癒、その他広く厚い崇敬をうけている。
境内には、小山の伝説で有名な「七ツ石」(夜泣き石)や藤原秀郷公碑、小山朝政公碑、小山義政公碑、天狗党に参画した昌木晴雄翁碑、筆塚などがあり、神域の須賀の森には、杉、桧、欅、樫、椿、銀杏等が生い茂り、多くの野鳥が棲息している。
-須賀神社鳥居-
須賀神社は牛頭天皇社・祇園社とも称され、祇園城主小山氏や小山の町衆たちから、広く崇敬を集めてきた。
承応二年(1653)に小山町の旦那衆によって建立されたこの鳥居には、天下泰平・国土安全・荘内豊饒・諸人快楽を祈願した銘文が刻まれている。
鳥居は、神社の参道に建てられて神域を示すもので、元来は木造であるが、平安時代頃からは石造も現れる。
この鳥居は、島木をもつ明神鳥居形式で、小山市に現存する最古の石造鳥居であり、規模も比較的大きい。
県内では指定文化財となっている日光東照宮の四基の鳥居に次ぐ古さを誇る、近世前期の貴重な鳥居である。
当初は参道に建立されたが、道路拡張のため現在地に移された。
間々田八幡宮(栃木県小山市)

神社名:間々田八幡宮(ままだはちまんぐう)
祭 神:誉田別命 息長帯姫命
鎮座地:栃木県小山市間々田2330
御朱印:あり
由緒書:あり
駐車場:大型駐車場あり

-由緒-
間々田八幡宮の創建は古く、今から約千二百有余年前の天平年間に勧請されたものと伝えられている。天慶二年(939年)平将門の乱が起こるや、朝廷は藤原秀郷等に勅して之を討たした。秀郷は征討に臨み沿道の神社仏閣に戦勝を祈願し、乱平定の後、当八幡宮に神饌御料として供田した。これより後、里人、飯田(まんまだ)の里と呼称した。
文治五年(1189年)陸奥の泰衡の乱に征討の軍を率いた源頼朝は、藤原秀郷、当八幡宮に将門調伏の祈誓ありしを聞き、戦勝を祈願して松樹を植えた。後にこれを「頼朝手植の松」と称し近年に及ぶが、惜しいかな明治三十八年枯死した。徳川幕府、家康の遺骨を日光山に遷し、日光街道十八駅を置く行程三十六里なり。日光・江戸の中間なるをもってままだと改称した。
また、朝廷は日光東照宮に例幣使をさしつかわし、例年、幣帛を賜るが、その道中、当駅をへるに鎮座せる神社の由緒あるを聞き、当八幡宮を必ず参拝されるを例とされ、享和年間の社殿焼失まで続いたと言い伝えられている。
正徳二年(1712年)六月神祇官より神階正一位の宣旨を受ける。
享和年間に失火し、社殿ことごとく灰燼に帰した。よって御神霊を仮殿に安置し、嘉永四年(1851年)に至り現在の社殿を再建した。建立に関係した宮大工は、折りしも東照宮大修理にあたって各地から招かれた、宮大工であったと伝えられ、御本殿の彫刻には、その優秀な技術をしのぶことができる。
当八幡宮境内はこの近隣に類を見ないほど広大で、小山市に貸与してある公園の部分を含めると約二万坪の敷地を有している。数百年の樹齢を数える杉の古木が荘厳な雰囲気を醸し出し、緋鯉、真鯉の遊泳する神の池には、春の桜、秋の紅葉がその艶やかな姿を映し、氏子崇敬者や市民の憩いの場となっている。
また、松尾芭蕉は、奥の細道紀行で江戸を出発して二日目に間々田宿に宿泊しているが、その芭蕉に因んだ句碑「古池や蛙飛び込む水の音」が立てられている。この句碑は病気平癒を祈願した氏子が、全快のお礼に嘉永年間建立したものであるが、御神徳による霊威は古い昔から伝えられるところであり、近年でも足を病んで歩行できなかった茨城の婦人が、夢に見た当神社を写真に撮り、朝夕拝んだところ病たちまち癒えたとお礼参りに来られたり、都内に本社を置く会社の社長は、当神社に祈願し、社殿下の砂を拝領して会社を起こして見事に成功した例など枚挙にいとまがない。これ偏に遠く天平の昔より間々田八幡宮のご加護を信じ、崇拝し、神社護持に力を尽くした氏子崇敬者の赤心に有難きご神徳が益々発揚されている証しであろう。
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