[栃木県]佐野市
二柱神社(栃木県佐野市)
神社名:二柱神社(ふたはしらじんじゃ)
祭 神:高皇産霊神 神皇産霊神
鎮座地:栃木県佐野市並木町167
駐車場:あり
-二柱神社 栃木県神社誌由緒-
創建は貞享元年(1684)である。本殿は天明三年(1783)に再建され、幣殿・拝殿もほぼ同時期。本殿の特徴は建物を埋め尽くす彫刻で、透し彫りや丸彫りに彩色が施され、一八世紀の神社建築の典型であり、江戸の後藤彫りの流れをくむ大平の富田在住の名工磯部儀左衛門秀重の代表作である。神仏分離令により、聖天を安楽寺に遷した。社殿は栃木県文化財。
朝日森天満宮(栃木県佐野市)
神社名:朝日森天満宮(あさひもりてんまんぐう)
祭 神:菅原道真公
配 神:豊受姫命 火産霊命
鎮座地:栃木県佐野市天神807
御朱印:あり
由緒書:あり
-朝日森天満宮 由緒書-
平安時代、藤原秀郷公の孫足利次郎太夫家綱、無罪の罪におとしいれらし時、大宰府天満宮に参篭一心不乱に祈念した処、ようやく冤罪がはれ、所領が安堵された。
家綱はこの偉大な神恩を感謝し、唐沢城中の天神沢に天満宮を勧請して尊崇の誠をつくした。
以後、佐野氏の累代及び一門は祖先の遺志を継承し守護神として崇敬して来ました。
その後、慶長七年(1602年)、時の城主佐野信吉、幕府の命により佐野天明郷春日岡(今の城山公園)へ城を移すに際し、天満宮も現在地に遷座され、地名を冠し、朝日森天満宮と称した。
以来、佐野の氏神として、当地の人々より天神様と呼ばれ、親しまれてきました。
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沼鉾神社(栃木県佐野市)
神社名:沼鉾神社(ぬまほこじんじゃ)
祭 神:伊弉冉尊 伊弉諾尊
鎮座地:栃木県佐野市赤見町3009
御朱印:あり
駐車場:境内に数台
-沼鉾神社 由緒碑-
神社の創立は、文武天皇二年(西暦698年)六月十五日勧請したと伝えられ、藤原秀郷公が元慶九年(西暦946年)に御本殿及び拝殿等を再建したといわれております。その後、正治二年(西暦1200年)に御本殿、拝殿を修理し、元和元年(西暦1615年)に御本殿の改築が行われております。享保年間に至り拝殿は、火災に会い消失しておりましたが、天保十一年(西暦1831年)正月十九日に新築されました。この度、御本殿、拝殿共老朽化甚しく、改修の必要にせまられ、氏子、崇敬者相計り、社殿の改修、社務所の新築をすることに決定し、社殿改修は、昭和五十八年七月二十五日仮遷宮並びに改修報告祭を執行、同年十二月二十五日修了、社務所の新築は昭和五十八年起工式を行ない、同五十九年三月二十九日工事を修了いたしました。追加工事として、水屋並びに神楽殿、末社の整備を行ない、ここに総べての工事を完了することができましたので1200年を記念し奉祝祭を執行いたしました。
赤城神社(栃木県佐野市)

神社名:赤城神社(あかぎじんじゃ)
祭 神:彦狭島王命 日本武命
鎮座地:栃木県佐野市植下町436
駐車場:社殿前の空き地に数台

-全国神社名鑑由緒-
景行天皇五十五年彦狭島王の御遺骸をひそかに移して奉葬したにはじまる。のち藤原秀郷がこの祠の再建普請を命じ天慶七年社領寄せ翌年遷宮の際上毛野延喜式内社赤城神社より日本武命を勧請合祀、狭島を改め赤城明神と号した。
唐沢山神社(栃木県佐野市)
別格官幣社
神社名:唐澤山神社(からさわやまじんじゃ)
祭 神:藤原秀郷公
鎮座地:栃木県佐野市富士町1409
御朱印:あり
由緒書:あり
駐車場:大型無料駐車場完備

唐澤山神社公式サイト
-唐澤山神社 由緒-
唐澤山は今より一千年の昔「むかで退治」の伝説や天慶の乱で平将門を滅ぼした藤原秀郷公の居城址で標高ニ四〇米ながら全山赤松におおわれ断崖と深い谷に囲まれた自然の要塞をなし、今なお当時をしのぶ遺跡が数多くあります。唐澤山神社の御祭神藤原秀郷公は幼時京都の近郊田原の郷に住んでいたので世に田原(俵)藤太秀郷ともいわれています。公の在世当時(平安朝の中頃)は都の朝廷では藤原氏が代々摂政や関白になって政治の実権をにぎっていましたが一族の間で政権争いがくりかえされ、そのために都の政治が乱れてくると地方の政治もゆるみ土着の豪族などが欲しいままに勢力をふるってくるようになり、時に公は延長五年(927年)に下野国(栃木県)の警察にあたる押領使という役に任ぜられ父祖伝来の此の地に参られ唐澤山に城を築いて善政を施していた。
たまたまこの頃桓武天皇の流れをくむ平将門は父の残した領地のことから叔父の国香を殺し、しだいに勢力を増し天慶二年(939年)頃から関東八ヵ国(上総、常陸、上野、下野、武蔵、相模、伊豆)の国府を順次攻めたて国府の長官を京に護送して関東地方の大部分を支配してしまい、自ら親皇と称し、朝廷の命令を聞こうとせず、このように将門が地方で乱暴を働くのをみかねた朝廷では藤原忠文に征東大将軍の職を与え将門征伐に出発させ、その軍が到着する前に秀郷公は平貞盛と力を合せて、将門の軍を下総国幸島において攻めほろぼし、時に天慶三年二月十四日世にこれを天慶の乱と言います。公はこの功績により押領使から下野守(栃木県の長官)になり、さらに武蔵守の役も兼任するようになり従四位下へと進み、その手柄に対し朝廷より土地一功田が与えられました。その後代々子孫が城主となり、約七〇〇年間、佐野修理大夫信吉公の代まで続き、徳川幕府の初期、現在の城山公園の地に城を移し春日城とよばれました。この春日城がまだ完成しない一六一三年(慶長十八年)大名としての佐野家は徳川氏の政策により断絶、城主佐野信吉は信州松本城にお預けとなりましたが、ニ三年の後時の三代将軍家光から赦免の恩命に浴し、信吉の二人の子供は旗本として佐野家を再興することができました。一八六七年(慶応三年)廃藩置県により士族となり明治を迎え、ここに至り一族、旧臣、相謀って沢英社と東明会を組織して秀郷公の遺徳をしのび明治十六年九月ニ五日本丸跡に神社を創建して同年一〇月ニ五日に秀郷公の御霊を奉斎し、以後永くこの地方の守護神として尊崇されております。
人丸神社(栃木県佐野市)
祭 神:柿本人麿公
鎮座地:栃木県佐野市小中町1061
御朱印:あり
駐車場:神社前に10台くらい
-人丸神社 全国神社名鑑由緒-
柿本人麻がかってこの地に遊んだが、里人の信仰により、元慶元年石見国高角山より勧請した。「志もつけの安蘇野の原のあさあけに、もやかけわたるつつらくさかな」境内に清池(記念物)がある。旧村社。
-人丸神社 案内板縁起-
一、当地は義人田中正造翁、画聖小堀鞆音、同安雄、山口信治(正造翁と国会開設請願者)、篠崎ハル(ナイチンゲール受賞)篠崎敏治、源三兄弟の生誕の地として有名である
一、御社に参拝された文人は樋口清之(国学院大学名誉教授)、梅原猛ご夫妻(京都産業大学教授)、小堀桂一郎(鞆音 孫東・京大学教授)、小林吉一(国学院栃木短大教授)芸能人は当地縁の京塚昌子、江戸家猫八、小猫父子等の各氏
一、初詣、七五三、学業成就(進学合格)、交通安全祈願は霊験あらたかである
御祭神人麻公の詠われた歌
下野の阿蘇野の原の朝あけに
もやかけわたる、つづら草かな
天明宿星宮神社(栃木県佐野市)
神社名:星宮神社(ほしのみやじんじゃ)
祭 神:天津日高彦穂迩々杵命
相 殿:磐裂神 根裂神
鎮座地:栃木県佐野市大蔵町2928
御朱印:あり
由緒書:あり
駐車場:境内に数台
-天明宿星宮神社 由緒-
天孫星宮大明神建立記によれば、星宮神社は久安年中(1145年〜1150年)の草創で天孫星宮慈照大明神と称する。
当社はかつて天明宿の氏神であり、明治九年には合併した旧佐野町の氏神となる。
主祭神は天津日高彦穂迩々杵命 相殿 磐裂神 根裂神 を祀り、神仏分離に至るまで合はせ虚空蔵を合祀し、共に国土開発・地域産業発展の為に功顕せられた神々として敬神の心厚く崇拝され、特に氏子はウナギを食べない伝説(質素倹約を旨とし)あり華美を謹み質実を奨められた神のおぼしめしを守り、酒を飲み喧嘩口論等を謹む神のいましめとして氏子に伝えられている。
後虚空蔵菩薩は現在春日岡惣宗寺に移管されている。
星宮神社が天明宿の氏神に祀られる前は、犬伏地区富岡にあったという説。
これを慶長五年(1600年)佐野修理大夫信吉が現在地に移転させたと伝え、旧社地が七ツ塚と呼ばれ塚を七つ北斗七星の形に配置、この地を星宮妙見大菩薩を祀る地としている。
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