[群馬県]伊勢崎市の参拝神社
- 宮子神社(群馬県伊勢崎市)
- 伊勢崎神社(群馬県伊勢崎市)
- 大雷神社(群馬県伊勢崎市)
- 倭文神社(群馬県伊勢崎市)
- 小泉稲荷神社(群馬県伊勢崎市)
- 蓮神社(群馬県伊勢崎市)
- 大東神社(群馬県伊勢崎市)
- 伊与久雷電神社(群馬県伊勢崎市)
- 瑳珂比神社(群馬県伊勢崎市)
- 大國神社(群馬県伊勢崎市)
- 淵名神社(群馬県伊勢崎市)
宮子神社(群馬県伊勢崎市)

神社名:宮子神社(みやこじんじゃ)
祭 神:大己貴命
配 神:豊玉姫命 倉稲魂命 菊理姫命
鎮座地:群馬県伊勢崎市宮子町1710
駐車場:一の鳥居右側に数台
-宮子神社 伊勢崎佐波の神社誌由緒-
当社御祭神は、大己貴命で、縁を結び病気を治し不幸を救う神として崇敬され、また国土の守護神とも言われている。別名、大国主命・大穴牟遅命の名があり、「大黒さま」としても広く親しまれている神様である。
当社の創建は、後一条天皇の御代の万寿二年(1025)三月、領主の創建にかかると伝えられ、別当月読山福昌寺社僧となった。江戸時代に至ると、徳川幕府の旗下跡部山城守の領地となり、篤い崇敬を受けて、社殿の修理並びに毎年祭祀料として玄米六石一斗五升及び幣帛が寄進されてきた。
明治維新後はこの寄進も無くなったが、当地の鎮守社として、明治七年に村社に列せられ、同四十一年四月二十八日、竜宮神社及びその境内社の稲荷神社を合祀して、現在に至る。
境内は、ほぼ南北に大変長い参道を有する。その参道には、石造りの鳥居が三基建っており、その内の一基は孝明天皇の御代の嘉永六年(1853)に、残る二基は紀元2600年(昭和十五年)を記念し、それぞれ建立されたものである。また、石造りの常夜灯・狛犬などもあり、昭和十年代に造られたものである。
本殿は一間社流造薯B葺で、覆屋の中に鎮座している。中には光格天皇の御代の文化十二年(1815)の墨書銘を残した幣帛箱が納められているが、その建造は調査の結果それよりは少し後の十九世紀中頃と推定されている。海老虹梁に龍の透し彫りを施したり、彫刻が随所に用いられ極彩色が施されている。
伊勢崎神社(群馬県伊勢崎市)

神社名:伊勢崎神社(いせさきじんじゃ)
祭 神:保食神(宇氣母智命)
配 神:大日靈命 素盞嗚命 譽田別命 大物主命 菅原道真命 健御名方命 火産霊命 大雷命 經津主命 市杵島姫命 表筒男命 武甕槌命 倉稲魂命 大山祇命 埴安姫命 大巳貴命 速秋津姫命 天羽槌男命 火雷命 小彦名命 岡象女命 菊理姫命 別雷命 竹内宿禰命 八衛比古命 櫛御氣野命 速佐須良姫命
鎮座地:群馬県伊勢崎市本町17-10
御朱印:あり
由緒所:あり
駐車場:駐車場あり
伊勢崎神社公式サイト

-伊勢崎神社由緒書-
順徳天皇の御代(凡そ750年前)に三浦介義澄の創立したものと伝えられます。
代々の赤石城主の崇敬厚く、明治に至って氏子持ちとなりました。
当社は元飯福神社と称しましたが、町内数社を合併して大正十五年、県社に列せられました。伊勢崎という地名は、古くは赤石の郷と云いましたが、元亀年間に伊勢大神宮を勧請奉祀して、伊勢崎と云うようになったと伝えられます。
-伊勢崎神社案内板由緒-
順徳天皇の御代 健保元年(1213年)三浦介義澄の創立したものと伝えられます。代々の赤石城主の崇敬厚く、明治に至って氏子持ちとなりました。大正十五年、旧称の飯福神社が、稲荷神社を始め町内数社を合祀して、正式に伊勢崎神社と改称されました。社殿は本殿・幣殿・拝殿からなり、本殿は嘉永元年(1848年)の創建であり、彫刻の緻密にして壮麗な事は氏子の誇りであります。
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大雷神社(群馬県伊勢崎市)

神社名:大雷神社(たいらいじんじゃ)
祭 神:大雷命 高龗命 大山祇命
鎮座地:群馬県伊勢崎市西久保町3-859
駐車場:境内に数台

-大雷神社全国神社名鑑由緒-
足利兼行、淵名の庄を領した時に鎮斎したという。累世崇敬厚く神田を寄進した。由良氏さらに社殿の修理を行ない、新田義貞は戦勝の祈願をした。元亀二年領主市場に鎮座していたのを現在の丘域に遷座、神領の寄進があった。徳川氏に至り寛政一一年領主加納氏本殿・拝殿を改築し毎年例祭に供米二斗を奉進。明治六年一二カ村の郷社となった。
倭文神社(群馬県伊勢崎市)

上野国延喜式内社:倭文神社 上野国九の宮
神社名:倭文神社(しとりじんじゃ)
祭 神:天羽槌雄命
配 神:倉稲魂命 木花咲耶姫命 誉田別命 菅原道真命 大己貴命 素盞嗚命 豊受姫命 大山祇命 菊理姫命
鎮座地:群馬県伊勢崎市東上之宮町380
御朱印:あり
由緒書:あり
駐車場:あり

-倭文神社案内板由緒-
当社の御祭神は、天羽槌雄命で、その歴史は古く機織の祖神として、また農耕、養蚕の神として尊崇されてきた。その創建は、人皇第十一代垂仁天皇の御宇三年と伝えられているが、これを明らかにする証跡は、現在不明となっている。
貞観元年(859)に官社に列せられ、従五位下を授けられた。(三代実録) その後、延長五年(927)に撰集された「延喜式」神明帳の中に倭文神社の名が載せられ、上野神明帳には、「従一位倭文大明神」とあって、上野国の九之宮とも称された。
その後、戦国時代の争乱にまきこまれ、一時荒廃したが 徳川氏の江戸入部以来 関東地方も次第に平和をとりもどし、元和年間(1615-23)から寛永年間(1624-43)に入る頃は、社殿も再建され、別当寺として、新義真言宗宮川山慈眼寺が定められ、住持実秀が別当となった。以後近世を通じ倭文神社は慈眼寺の管理下におかれた。三代将軍家光の慶安元年(1648)九月には、御朱印地十石を賜わり、漸く安定した神社経営が行われ、祭事も復興し、神威もいよいよ加わるに至った。その後約八十年を経て、享保十二年(1727)八月には、八代将軍吉宗から社殿再建勧進の許可を得て上野国はもとより、江戸府内からも浄財の寄進を仰ぎ、旧にまさる荘厳な社殿鳥居などが再建され、大いに隆盛をきわめた。しかし、この社殿も慶応二年(1866)十一月九日再度火災に会い、悉く灰燼に帰してしまった。
現在の社殿はその後、明治十三年十月二十四日(上棟)に再建されたものである。なおさきの御朱印地十石の斎田は、明治維新の際上納され、また明治元年の神仏分離令により、別当寺や社僧の制も廃止され、神職によって祭祀される現在の姿となった。その後区内の小社祠の整理合祀も行われ、この間郷社に列せられた。また大正十四年には、神饌幣帛料供進社に指定された。
今次大戦後は、国家神道や社格もなくなり、純粋な上之宮町の鎮守として今日に至っている。
小泉稲荷神社(群馬県伊勢崎市)

神社名:小泉稲荷神社(こいずみいなりじんじゃ)
祭 神:倉稲魂命 大己貴命
鎮座地:群馬県伊勢崎市小泉町265
御朱印:あり
由緒書:あり
駐車場:あり

-小泉稲荷神社由緒書-
御祭神倉稲魂命、大己貴命をお祭りする小泉稲荷神社は、人皇十二代崇神大皇の御代に豊城入彦命東夷征討の際、案内の武臣が勅命によって山城国伏見稲荷大明神の御分霊を奉祀し住民の安穏と五穀豊穣を祈願し崇敬の道を教えるため創建されたと伝えられています。
其の後、慶長五年此の地の領主久永源兵衛崇敬の念があつく社殿を修理し敬神の範を示した為に領民は氏神としたといわれています。特に江戸時代末期の祭礼日には近郷近在の参詣人で非常ににぎわったといわれています。
明治、大正時代を経て昭和の御代に入り社殿も老朽化したので社殿造営の奉賛会を組織し崇敬者の多数の御協賛により、昭和三十六年四月、現在の社殿を造営しました。
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蓮神社(群馬県伊勢崎市)
神社名:蓮神社(はすじんじゃ)
祭 神:櫛御気野命 豊城入彦命
配 神:菅原道真公 八坂刀売命 健御名方命 火雷命 建速素盞鳴命 大山祇命
鎮座地:群馬県伊勢崎市豊城町1988-1
駐車場:あり
蓮神社 伊勢崎佐波の神社誌由緒
当社の境内地である権現山は、その昔山頂に熊野権現が祀られていたことから「八寸(蓮)の権現山」と呼ばれ、第十代崇神天皇の皇子豊城入彦命が東国鎮定後この地において崩御せられ、その御陵であると言い伝えられている。『殖蓮村郷土誌(明治四十三年刊行)』によれば、「東上州八寸村ノ若一王子大権現ハ元亨元年(1321)、熊野権現ノ臣下尾組ノ中将兼房ト云ウ者、此ノ山ニ勧請申ス」と記されており、古くからこの地が熊野信仰の場であったと考えられる。現在の社殿は、領主の渡辺孫三郎富義が若一王子大権現の本地として奉納した大日如来の厨子の表書きより、東山天皇の御代の貞享五年(1688)に建築されたものとされている。その後、明治七年に村社に列せられると共に、それまでの若一王子神社から熊野神社に改称し、八寸村の総鎮守社となった。さらに、明治四十一年には、字長溝の無格社菅原神社、字宿裏の無格社熊野神社、字諏訪台の無格社下諏訪神社、字小斎の無格社上諏訪神社、字上サの無格社火雷神社、字八坂の無格社八坂神社、字権現の無格社山神社の七社を合祀し、蓮神社と改称し現在に至っている。深い緑に囲まれた石段を登りつめた処に鎮座し、いかにも神社としての風格、雰囲気を漂わせている社ということもあって、近年、初詣など近在からの参詣者が急増している。また、学問の神として、各種学校の受験者が合格祈願に参詣する姿も増えている。
大東神社(群馬県伊勢崎市)

神社名:大東神社(だいとうじんじゃ)
祭 神:事勝国勝長狭命
配 神:大日靈命 菅原道真命 大雷命 櫛御気野命 木花咲爺比売命 市杵島比売命 素盞鳴命 大物主命 大山昨命 大山祇命 迦具土命 宇気母智命 日本武命 伊邪那岐命 柿本人麿命 大己貴尊 埴土安媛命 誉田別命
鎮座地:群馬県伊勢崎市東小保方町3304
駐車場:公園駐車場が隣接

-大東神社 伊勢崎佐波の神社誌由緒-
創建に関する由緒文献の類は現存しないが、口碑の伝える所によると、小保方村はその昔、夷毛野原と称され、第十代崇神天皇の御代、東国開拓の祖たる豊城入彦命の東夷御征討に際して、その武臣が先駆して来て神社を創建し郷民に崇敬の道を教えた。これを夷毛野大明神と言い、上野国神名帳に佐位郡従四位上郡都奈明神とあるのは当社であるとされている。清和天皇の貞観元年(859)正月十三日、宮内少輔従五位下清原真人が上野介となり、郷土の安寧を祈って社殿を修理し奉幣の儀を挙げた。陽成天皇の元慶二年(878)二月十五日、左京権亮従五位下源朝臣建が上野介となると、また奉幣の式を行い神領を寄進した。後鳥羽天皇の御代の文治二年(1186)七月二十日、上野守護阿多地盛長の長子景盛がその職を継ぐと、社殿を修理し神領を寄進して社名を生野大明神と改めた。後醍醐天皇の御代、新田義貞が北条氏征討の時に戦勝を祈願し、大願の成就すると社殿を改築し、神号を勝呂大明神と改めた。後陽成天皇の慶長五年(1600)、久永源兵衛がこの地の領主となると、社殿を改築し神田を寄進し、毎年幣帛を奉納して祭事を怠ることなかった。慶応年間(1865〜68)、合併神社の雷電社に角力年寄浦風浪右衛門による相撲辻免許の奉納がなされ、以来秋季祭典の行事として角力が行われてきた。(現在は途絶している。)明治四年本殿を修理し、同六年村社に列した。同四十年二月、神社整理の訓令が発布され、字台・新町に散在する小社十社を合併し、大正二年十二月には再び大字東小保方各区の無格社大小三十二社を合祀し、現在地に社殿を新築して遷座し、大東神社と改称した。神社移転の理由については、この地はもの夷毛野原の一部を画して公共地とし、旧地頭の時は代官所が設置された所であるが、明治初年に学校が建築され、その後村の中央に町村合併の東小学校が開校すると分教場に縮少され、残りの地を神社用地として寄贈されたためによる。これは、県下でも神社合併合祀の代表的な例といえる。
-大東神社 旗本久永氏陣屋跡案内板-
現在の東小保方地区は江戸時代には東小保方村と呼ばれ、徳川家の旗本久永源兵衛重勝の領地でした。久永氏は石見国(島根県)の出身であり、埼玉や茨木にも領地が点在する禄高3,200石の旗本でした。
東小保方村は石高が1,182石の村であり、久永氏は村の支配のためにこの地に陣屋を設けました。陣屋は東西75m、南北120mの大きさで、濠や土居が構えられていました。濠はその後拡幅されて池となってしまい、現在では南池の南端と西池の東端にわずかに当時の面影が残されているのみです。
南面には正門を有し、更に南へと通路が続いて細長い大手枡形となり、南端には木戸が設けられていたものと思われます。この形は陣屋特有のものであり、県内でも吉井や岩鼻の陣屋がこれと同じになっています。
明治維新後陣屋は廃され、一時期小保方小学校として使われるとともに、大正二年には周辺の神社を合祀した大東神社がおかれ今日に至っているものです。
伊与久雷電神社(群馬県伊勢崎市)
神社名:雷電神社(らいでんじんじゃ)
祭 神:大雷命
配 神:高於加美命 火産霊命 罔象女命 健御名方命 天照大神 保食命 倉稲魂命 菅原道真命 誉田別命 櫛御気野命 最上神 大物主命 素盞鳴命 日本武命
鎮座地:群馬県伊勢崎市境伊与久3581
御朱印:あり(管理人在中時)
駐車場:あり
-雷電神社 社務所案内由緒-
当社は順徳天皇の建保六年(1215)三月二十五日に、赤石城主(伊勢崎)三浦之介義澄が創建したと伝えられる。上野国神名帳に「従四位上高於神明神」と記されるのが当社である。後醍醐天皇の元弘三年(1333)三月、新田三衛門佐義貞が鎌倉追討の際に社殿を修理し、戦勝祈願祭を行った。正親町天皇の永禄三年(1560)には、赤石左衛門尉・同又次郎の領有となるや領土の安全を祈り、祭供料と神領を寄進した。明正天皇の寛永十四年(1637)、伊勢崎城主河内守忠行は社殿を修覆し祭米を奉り、霊元天皇の延宝九年(1681)には酒井下野守忠寛が領主となるや社殿を修理した。また後桜町天皇の明和四年(1767)にいたり、酒井駿河守忠温が社殿を修覆して祈雨の祭典を行った。このように江戸時代にあっては領主酒井家の崇敬とくに篤く、累世修理や祭米・奉幣を得てきたが、明治維新後は郷土の鎮守神として氏子の尊崇するところとなり、明治四年には村社に列せられ、同四十年には境内諸末社を合祀して今日に至る。
-雷電神社 佐波郡神社誌由緒-
建保三年赤石城主三浦之介義澄の創建。新田義貞社殿を修繕し戦勝祈願を行ない代々崇敬厚く、永禄三年赤石又次郎領土の安全を祈り、祭供料・神領を寄進。のち代々の領主社殿を修理し祈雨の祭典を行い奉幣があった。明治以後郷土の氏神として氏子の崇敬厚く、雷災除の神として信仰が厚い。
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瑳珂比神社(群馬県伊勢崎市)

神社名:瑳珂比神社(さかいじんじゃ)
祭 神:倉稲魂命
配 神:火産霊命 健御名方命 素盞鳴命 大物主命 菅原道真命 鎮西八郎為朝命 誉田別命 大日靈命
鎮座地:群馬県伊勢崎市境493
駐車場:境内に数台

-案内板由緒-
当社の創建は、戦国期に能登半島より小此木左衛門長光来り境他六ヶ村を領有した守護神として生国能登国の石動明神の分霊を境城内に奉斎した、大永年間(1521〜27)とされている。長光の子左衛門次郎は、正親町天皇の御代の元亀三年(1572)、武運長久を祈って稲荷の神像と石製の剣を奉納し、石剣権現と称した。後陽成天皇の天正十八年(1590)、小此木氏が当地を退去すると、郷民は当社を鎮守社と定め、石剣稲荷大明神と改めた。
後に那波・新田両郡の境にあるため境村となり、後光明天皇の正保四年(1647)に例幣使街道が開設され、宿場町となると次第に町並みも形成され慶安年間(1648〜51)には境町となった。
桃園天皇の宝暦十一年(1761)拝殿が造営され、後桜町天皇の明和三年(1773)社前に挿花絵馬(境町最古の絵馬)が奉納され、光格天皇の享和元年(1801)には氏子の発起により現在の社殿が建立されている。その後も神域は整備され、明治七年には村社に列せられた。明治四十年九月に町内諏訪神社境内末社菅原神社・八幡宮疱瘡神社、八坂神社、稲荷神社・神明宮・琴平宮・秋葉神社を合祀し、現在の瑳珂比神社と改称して今に至る。
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大國神社(群馬県伊勢崎市)

上野国延喜式内社:大國神社
神社名:大國神社(おおくにじんじゃ)
祭 神:大国主命
配 神:日葉酢媛命 淳葉田瓊入媛命 真砥野姫命 薊瓊入媛命 竹野媛命 罔象女命 素盞鳴命
鎮座地:群馬県伊勢崎市境下渕名2827
駐車場:神社右側県道沿いに数台

-案内板由緒-
延喜式神名帳に上野国大国神社あり上野国神社名帳に従一位大国神社とあるは即ちこの社である縁記に曰く人皇第十一代垂仁天皇の九年庚子四月より風雨順ならず、大旱打続いて蓄斃死するもの数を知らず天皇深く之を憂ひ給い諸国の神明に奉幣せられ東国には百済車臨遣はされて車臨この地に来り老松の樹下に宿る之れ即ち御手洗の亀甲松であった偶々明旦前池に白頭翁の手洗ふを見たので問ふた叟は何人ぞと翁答いで曰く吾は大国主の命である。汝は誰だと車臨容を正して吾は天皇の勅を奉じて風雨順時疫病平癒の奉幣使百済車臨である願くは国家の為に大難を救助し給へと翁唯々と答ふ言下に雲霧咫尺を辨せず翁の姿は消えて影もなし須叟にして風巽より起り、甘雨澎湃として至り前地忽にして淵となった。因って此の郷を渕名と呼ぶ様になり、これから草木は蘇生し悪疫悉く息み五穀豊饒土蒼生安穏となり天皇深く車臨を賞して左臣の位を授け大国神社を此の処に祀らしめ此の地を賜ったと云ふ。仝年十五年丙午の年九月丹波国穴太郷より五媛の宮を奉遷して合祀した故に古より当社を五護宮又は五后宮とも書き第五姫大明神とも称した此時第五媛の神輿に供奉した舎人に松宮内 大須賀左内 生形権真人 石井田右内の四人があり、松宮内の子孫代々当社の祀宮として明治に至ったと伝へられて居る。後称徳天皇の神護景雲元年従五位上佐位采女勅を奉して上毛に下り社殿を修造し国造の神として、渕名荘三十六郷の總鎮守として尊崇殊に篤かった。文化元年甲子現在の社殿を改築し、明治七年熊谷縣管下北方十六区佐位郡波両郡四十二ヶ村の郷社に列し仝四十二年二月神饌幣帛料供進社に指定されたのである。世界大戦後は、祭典を止められ神社の財産も開放となったが由緒ある神社で、氏子を始め、四隣からの崇敬は目を追ふて古にかへりつゝある境内は貮千四百七十六坪地は天然の丘陵に位置し、近くは太田の金山遠くは常陸の筑葉山と相対し遥かに西南を望めば上武の連峯は雲烟模糊の間に縹沙として遠近の風光を収めて居る云え。社前は延徳二年庚戌四月十六日本願法名清本秀行刻せる石浄手鉢一基あり、元御手洗の社前より移したものといふ。
-伊勢崎佐波の神社誌由緒-
延喜式神名帳に「上野国大國神社」、上野国神名帳に「従一位大國神社」と記されるのが当社である。縁起によれば、第十一代垂仁天皇の九年(約ニ千年程前)四月より天候不順で大干魃が続いたために、疫病が流行り人蓄共に大半が死亡したという。これを深く憂い給いた天皇は、諸国の名神に祈雨のため奉幣し、東国には奉幣使として百済の車臨を遣わした。垂仁天皇十一年九月、その車臨が当地に来て老松の樹下に一夜の宿をとった。(これが御手洗亀甲松である)翌朝、前の池で手を洗う白髪頭の翁を見つけ名を尋ねると、「吾は大国主命なり。」と答えた。それを聞いた車臨は、「私は疫病平癒と降雨祈願のために、天皇の勅を奉じて遣わされた奉幣使です。どうか国家の大難をお救いください。」と嘆願した。翁は「よし、よし。」と答えるやいなや、その姿は立ち消え、しばらくすると巽(東南)の方角から風が吹き始め、雨が降り始めた。この降雨のおかげで草木は蘇生して五穀豊穣となり、疫病もおさまった。天皇は車臨を賞して左大臣の位を授けると共に、当地を下賜して大国主命を奉斎せしめた。同十五年九月、丹波国穴太郷より五媛の宮を奉遷して配祀神とした。その後、称徳天皇の御代の神護景雲元年(767)、勅を奉じて当地に来た従五位上佐位うぬ女が、大国主命を国の造神と號し、渕名荘三十六郷の総鎮守として当社の社殿を修造した。光格天皇の文化元年(1804)現在の社殿に改築し、明治七年には熊谷県北第十六第区の佐位・那波両郡四十二ヶ村の郷社に列せられた。さらに、同四十年三月二十五日、無格社御手洗神社、八坂神社を合祀して今日に至る。












