[群馬県]太田市の参拝神社
- 新田神社(群馬県太田市)
- 只上神社(群馬県太田市)
- 岡登霊神社(群馬県太田市)
- 薮塚神明宮(群馬県太田市)
- 高山神社(群馬県太田市)
- 世良田八坂神社(群馬県太田市)
- 世良田東照宮(群馬県太田市)
- 冠稲荷神社(群馬県太田市)
- 徳川東照宮(群馬県太田市)
- 松尾神社(群馬県太田市)
- 新井八幡宮(群馬県太田市)
- 生品神社(群馬県太田市)
新田神社(群馬県太田市)
神社名:新田神社(にったじんじゃ)
祭 神:新田義貞公
鎮座地:群馬県太田市金山町40-44
駐車場:大型駐車場あり
-新田神社 全国神社名鑑由緒-
明治六年の創建。太田市北部、関東平野を一望できる金山頂上の、祭神の城址本丸に鎮座する。明治九年県社となる。社地は昭和九年史跡に指定された。
-新田神社 新田郡神社概誌由緒-
公の裔孫新田俊純・地方有志と謀り、明治六年神社創立の許可を得て、同八年社殿を建築し、新田神社の社號を賜る。同九年縣社に列せられ、同十八年十月廿五日と翌十九年十月廿九日に 皇后(昭憲皇太后)陛下御参拝幣帛料御奉納あらせられ、同二十一年十月二十二日 皇太后(英照皇太后)陛下には使御差遣幣帛料御奉納御代拝仰付けられ、同二十五年十月十七日皇太子殿下(大正天皇)御参拝幣帛料御奉納あらせられたり。同四十二年十一月七日 皇孫殿下(今上天皇陛下)には学習院生徒の御資格にて御参拝幣帛料御奉納あらせられ、度々皇族方の御参拝辱ふせり。
又昭和八年五月新田公義挙六百年祭執行の趣天聴に達し祭粢料を御下賜あらせられ、同九年十一月十三日今上天皇陛下には御使永積侍従御差遣幣帛料御奉納あらせられ御代拝仰付けられたり。同年十二月神社境内付近一帯は金山城址として文部大臣より指定せらる、同十三年五月二十二日御祭神殉節満六百年祭を奉行せり。
只上神社(群馬県太田市)

神社名:只上神社(ただかりじんじゃ)
祭 神:品陀和氣命 建御雷神 (参考:平将門公)
配 神:建御名方神 大穴牟遅神 大山昨神 豊城入日子命 菅原道真公 石筒男命 火産霊神 石筒女命 大物主命 天皃屋根命 大山祇命
鎮座地:群馬県太田市只上町1706
-只上神社 拝殿額由緒-
建御雷神ハ明治十年同村鹿島社ヨリ合祭ス。
明治四十二年七月三十一日許可、本社境内社末社日吉社大山祇社及諏訪原ニ祭祀セル無格社諏訪神社字深町無格社日吉神社字八幡上ニ祭祀無格社菅原神社字清水無格社赤城神社ノ八社ヲ合併セリ。境内末社日吉社及大山祇社ハ本社ニ同一祭神ナルヲ以テコレヲ合霊シ末社ヲ削除ス。
岡登霊神社(群馬県太田市)

神社名:岡登霊神社(おかのぼりりょうじんじゃ)
祭 神:岡上景能公
鎮座地:群馬県太田市大原町391
駐車場:境内に数台

-岡登霊神社案内板由緒-
代官岡登次郎兵兵衛景能公は 武州高柳村(埼玉県児玉町)に生まれた承応三年(1654)幕府代官に任用され 父景親に従い吾妻郡東村岡崎新田開発に榛名湖を源とする沼尾川より引水し多くの水田を拓いた。
大間々扇状地帯にある笠懸野は古渡良瀬川の河床であったため、いわゆる不毛の地であった、景能公は寛文九年(1669)笠懸野に赴任し鹿之川に陣屋を設けて管内を綿密に調査測量の上農民のために開発の許可を得た。
そして足尾町を起点とする銅山街道沿いに地区割を設け、久々字 桃頭 本町 大久保 山之神 六千石 権右衛門 溜池と不毛の土地2052町歩を開発し原八ヶ村を新設した。更にこの地に水を引くべく大間々地内の渡良瀬川右岸(蕪町)より岩盤を刳り抜いて取水口を設置し三俣分水により用水を西南に二分するなど難工事を重ね念願の笠懸野を潤す岡登用水を完成させたのである。開拓住民の安住は先づ敬神崇祖の精神をと大原神明宮をはじめ五社三寺を創建して民心の安定に心を盡くした。偉大な事蹟を重ねられた公は貞享四年十二月三日(1687)冤罪を被り自刃された 齢五十余才と伝えられている 遺骸は笠懸町国瑞寺に葬られその功績を認めらられ大正四年 従五位を贈られた。
地区村民は公の恩に報いるため、宝暦二年(1752)京都吉田神道家に神号下付の運動を行い「顕信霊神」の神号が下付され、ただちに本町村神明宮境内に社祠を建立「岡登霊社」とした。
時代は還り用水路再興の願いは明治五年許可され翌年完成した。
その後昭和三十一年から岡登用水の笠懸町 阿左美沼東貯水池に於て開催されている競艇の事業収益は周辺市町の財政を潤している。
景能公没後三百年、今尚 公の恩恵に浴しているのである。
追記
昭和四十九年十二月三日社殿改築と共に岡登景能公顕彰参百年祭を盛大に挙行、諸費用は総て桐生競艇関係諸団体の■金によって賄われたのである。境内は「岡登児童公園」として保存会に委託、会員により定期的に清掃作業が行われている。
元旦の「お焚き上げ」は年々参拝者が増え今では大行事となっている。
薮塚神明宮(群馬県太田市)

神社名:神明宮(しんめいぐう)
祭 神:大日靈命
鎮座地:群馬県太田市大原町391
駐車場:境内に数台

-薮塚神明宮全国神社名鑑由緒-
寛文四年、旧幕府の代官岡登次郎兵衛景能が、当村ほか七カ村の開墾に際して勧請したもので、明治五年郷社に列した。
高山神社(群馬県太田市)

神社名:高山神社(たかやまじんじゃ)
祭 神:高山彦九郎正之命
鎮座地:群馬県太田市本町48-32

-高山神社 全国神社名鑑由緒-
明治六年、県の許可を得て正之の生誕地である細谷村に石祠を設け、同十一年、内務卿の指令を受け、陛下、各皇族よりの下付金ならびに一般の寄付を得て社地を現在地に選んで造営した。同十二年鎮座を行った。同十三年三月県社に列した。
世良田八坂神社(群馬県太田市)

神社名:世良田八坂神社(せらだやさかじんじゃ)
祭 神:素戔鳴尊 他
鎮座地:群馬県太田市世良田町1497
駐車場:境内に駐車スペースあり

-世良田八坂神社 案内板-
八坂神社の創建は明らかでないが、縁起によれば新田氏代々の崇敬社であり、織田信長も同社を崇拝し社殿を修造したという。また尾張国(愛知県)津島天王社の分霊を移したとも伝える。これは世良田政義の娘と南朝の王子尹良親王との間に出生した良王が、津島天王社の神主となったという故事によるものであろう。
「永禄日記」(長楽寺蔵)の永禄八年(1565)六月七日の条に、「天王祭ヲイタス」とあり、古くは「牛頭天王」を祀る天王社であった。江戸時代は神宮寺(大正二年普門寺へ合併)が奉仕し、世良田・女塚・境・三ツ木・粕川村など五ヶ村の鎮守であったが、明治初年さらに平塚・村田村・木崎宿などが加わり、二十四ヶ村の郷社とされ、八坂神社と称した。
当社は、農業・疫病除けの神として広く信仰されている。特に夏祭は「世良田祇園」として知られ、かって十一台の屋台が繰り出して競う祇園ばやしは、夜空にこだまして絢爛幻想の世界を現出し、関東の三大祭の一つに数えられた。近年は交通事情により祭りの規模は縮小されているものの、村人により祭り屋台・囃子が良く保存されており、神輿の渡御などに「世良田祇園」の伝統が受け継がれている。
世良田八坂神社(群馬県太田市)の続きを読む » ranking
世良田東照宮(群馬県太田市)

神社名:世良田東照宮(せらだとうしょうぐう)
祭 神:徳川家康公
配 神:菅原道真公 倉稲魂命 須佐之男命 伊弉冉命 火産霊命 大穴牟遅命 誉田別命 建御名方神 豊城入彦神
鎮座地:群馬県太田市世良田町3119-1
御朱印:あり
由緒書:あり
駐車場:あり
世良田東照宮公式サイト

-世良田東照宮 案内板-
元和二年(1616)徳川家康は駿府(静岡市)で七十五年の生涯を閉じた。遺命により、遺体は一旦駿府郊外の久能山に葬られ、翌年下野国日光に改葬された。それより二十年の後、社殿は三代家光によって全面的に改築され、今日の東照宮が完成した。当時日光輪王寺と長楽寺の住職を兼ねていた天海は、旧社殿の一部を長楽寺元境内に移築して東照宮を勧請した。当地が徳川氏発祥の地であり、当寺が徳川義季開基とする寺だからである。幕府は、長楽寺をその別当寺としてその管理や祭祀に当らせ、二百石の社領を与え、その社殿の修理や祭祀の費用は幕府の財政によって賄われることになった。桁行五間・梁間三間の拝殿は、日光奥社の拝殿を移したものである。家康の最初の墓標として建てられた多宝塔もここに移され、本地堂(俗に塔の薬師)として、明治初年までその豪華な姿をとどめていた。
東照宮の鎮座により地元世良田の住民はもとより、近隣十数か村の住民は、東照宮の火の番を奉仕することによって道中取郷を免除されたり、幕府によって開削された神領用水の利用を許されたり、種々の恩典に浴することができた。
寛永二十一年(1644)に遷宮式が行われた。
-世良田東照宮 由緒書-
寛永二十一年(1644)、三代将軍徳川家光公は、世良田が徳川氏の先祖の地ということから、日光東照宮古宮(元和年間造営の奥宮)を移築し、家康公をお祀りしました。奉斎にあたり家光公から御神領二百石が寄進され、以後、幕府の手厚い保護を受け、徳川家代々礼敬を尽くされました。東照宮の御鎮座は文化・経済の発展を助長し、世に「お江戸見たけりゃ世良田へござれ・・・」と謡われました。
世良田東照宮(群馬県太田市)の続きを読む » ranking
冠稲荷神社(群馬県太田市)
神社名:冠稲荷神社(かんむりいなりじんじゃ)
祭 神:宇迦之御魂大神 外二十柱
鎮座地:群馬県太田市細谷町1
御朱印:あり
由緒書:あり
駐車場:大型駐車場完備
-冠稲荷神社 案内板由緒-
当神社は、往昔、宿窪明神(宿穴伏明神)と号し、上野国神名帳に名を留める古社で、創建は古代と伝わる。
当地細谷は、古代は蛇川両縁の窪地なるために宿窪と称し、のちに地勢恰も山間の谷の如し、故に細谷と改称すと地誌にある。
天治二年(1125)源義国公は、館の丑寅に当る当社を鬼門鎮護の霊場とし、源氏一門守護の氏神を鎮祭した。この時をもって当社御鎮座とした。義国公は、皇統第五十六代、清和天皇の子孫にして、清和源氏第五代源義家の嫡子である。義国公の長子は新田家の開祖、新田義重であり、次子は、足利家の開祖、足利義兼である。
故に、義国公は、中世以降を司った源家一門の始祖といわれる。
承安四年(1174)源義経公十五歳にして源氏再興を志し、奥州へ下向した。その折、当社に仮泊し、深更社殿の深奥に瑞光をみた。そして自身の曾祖父源義親の弟義国公ゆかりの社と知り、元服の時、冠(鳥帽子)の中に勧請してきた伏見稲荷大社のご分霊を鎮祭した。以来、伏見稲荷大社の分祀社として崇敬されるようになった。
新田義貞公は若年の頃より当社への崇敬厚く、常用の四十二間筋兜(国宝)に稲荷大明神の神名を刻み、数多の神領、宝物を奉納し、年中五十三度の祭禮を当社にて執行した。
元弘三年(1333)鎌倉幕府討伐の兵を挙げたとき、神前に戦勝を祈願し兜の中に神霊の来臨を請えば、種々不思議の感応があったという。以来新田家は北条氏を滅ぼす偉功をあげたのは、当神社の神威によるものと崇敬益々深厚にしたという。
当社は稲荷大明神と称したが、村人は義経公、義貞公の故事を尊び、江戸時代中期より「冠稲荷」と呼び習わした。この由縁をもって、明治維新の折、名を冠稲荷神社と改めた。
-冠稲荷神社 由緒書-
古墳時代六世紀より千五百年の間、義経公冠奉安を始め、数々の歴史を見つめ、祭祀祭礼が行われてきた宮の森。
冠稲荷神社は、平安時代の天治二年(1125)、新田氏の始祖新田義重公の父、源義国公創建と伝えられ、伏見、豊川、信田、王子、妻恋、田沼と合わせ、日本七社のひとつといわれている。
承安四年(1174)源義経公は奥州下向の折、当社が源氏ゆかりの社であることを知り、冠の中に勧請してきた京都伏見稲荷大社の御分霊を鎮祭。
また、時を経て、新田義貞公は元弘三年(1333)鎌倉幕府討伐の兵を挙げるにあたり当社神前にて兜の中に神霊の来臨を請い戦勝を祈願されたと伝えられている。
この故事にちなみいつしか冠稲荷大明神と人々から呼ばれるようになったという。
徳川東照宮(群馬県太田市)
神社名:徳川東照宮(とくがわとうしょうぐう)
祭 神:徳川家康公 外十三柱
鎮座地:群馬県太田市徳川町396
世良田東照宮・徳川東照宮公式サイト
-徳川東照宮 新田郡神社誌由緒-
寛永年間正田隼人義長の創建なりと傳へ、明治五年村社に列せられ、徳川村総鎮守として村民の崇敬篤し。同八年従三位公爵徳川家達参拝せられ、同四十年十一月本社境内三社並に附近の神社六社(境内神社三社)を合祀せり。昭和七年三月、徳川家達公・徳川圀順公・松平頼壽伯参拝せられたり。
松尾神社(群馬県太田市)

神社名:松尾神社(まつおじんじゃ)
祭 神:大山咋命 市杵嶋姫命
鎮座地:群馬県太田市新田小金井町1113
駐車場:神社左側に数台

-案内板由緒-
承平年間(930年代)の創建と伝えられる。
この地域の開発に先立ち、土地開拓の神として、山城國(京都)松尾神社の神を祀った、と云われる。酒造の道に御神徳のある神として、酒造家の崇敬をあつめた。鰻と亀を神使とし、古くから、地域に「鰻を食さず、亀を殺さず」、との言い伝えがあった。
新井八幡宮(群馬県太田市)

神社名:新井八幡宮(あらいはちまんぐう)
祭 神:品陀和気命 武内宿禰命 息長足姫命
鎮座地:群馬県太田市新井町546-3
駐車場:神社境内に数台

-全国神社名鑑由緒-
寿永元年新田蔵人太郎大炊義房が源家の家憲により京都石清水八幡宮を奉斎し、二男禅師覚義を別当職とした。覚義が新井に住むことになり新井氏と号し、新井氏の祖となる。文治五年新田筑後守源若美が社殿を造営したと伝えられる。寛文年間に館林城主徳川綱吉の祈願所となり、のち将軍となっても年々供米を献じた。明治五年郷社に列し、神饌幣帛料供進指定神社となる。
-案内板新井八幡宮獅子舞-
社伝によると新井八幡宮は、寿永年間(1182-1184)に新田氏本宗家三代の新田義房が京都の石清水八幡宮の御分霊を奉斎し創建したと伝えられる神社である。
獅子舞は、文亀元年(1501)新田義房の次男荒居(新井)覚義二十代の裔孫新井宗貞が石清水八幡宮への奉拝の途次、獅子舞を見てその優雅さに心を打たれ、京都から師を招き自らも舞って住民に習得させたことに始まるといわれる。
舞は四種類あり、「平庭」は子ども達によって、「梵前かかり」、「橋かかり」、「雌獅子かくし」は主に師匠によって舞われる。三頭一人立ちの獅子で、箱を重ねたような形から重箱獅子と呼ばれる頭と、紺地に水玉あられの衣装を付け、白足袋、わらじばきの姿で笛太鼓に合わせて舞う。
天下泰平、五穀豊穣、町内繁栄、怨敵退散の祈りが込められた獅子舞は、以前は旧暦八月十四日の宵祭、十五日の大祭、九月十五日、三月十五日の小祭に行われたが、現在では、九月十五日に近い土・日曜日に新井八幡宮境内で奉納される。
生品神社(群馬県太田市)

神社名:生品神社(いくしなじんじゃ)
祭 神:大穴牟遅神 品陀和気命 建御名方神 他二十二柱
鎮座地:群馬県太田市新田市野井町1923
駐車場:神社入り口前、神社裏にあり

-案内板由緒-
新田義貞が後醍醐天皇の綸旨を受けて、元弘三年(1333)五月八日、鎌倉幕府(北条氏)討伐の旗挙げをしたところが生品神社境内です。昭和九年に建武の中興六百年を記念して「生品神社境内 新田義貞挙兵伝説地」として史跡に指定されましたが、平成十二年に「新田荘遺跡 生品神社境内」として、面積を広げて指定されました。
義貞が旗挙げを行った時はわずか百五十騎でしたが、越後の新田一族などが加わり、たちまち数千騎となって、十五日間で鎌倉幕府を攻め落としたといわれています。
神社境内には、旗挙げ塚、床几塚があり、拝殿の前には義貞が旗挙げの時に軍旗を掲げたと伝えられるクヌギの木が保存されています。
現在では、義貞挙兵の故事にならい、毎年五月八日、氏子によって鏑矢祭が行われています。
平安時代に編集された「上野国神名帳」に「新田郡従三位生階明神」と書かれていることから、神社は平安時代には存在していたと指定されます。
-全国神社名鑑由緒-
天喜年中、源義家奥羽征討の際戦勝祈願をしたと伝えられる。元弘三年五月新田義貞鎌倉に攻にあたり当社前に義旗を挙げたことは太平記の記す所であり、古くは生階と称し、新田郡内には同名の神社が多く、当社を本宮とし、古来産土神として崇敬が篤い。昭和九年三月新田義貞挙兵地として史跡に指定。明治以後県社に列した。









