[群馬県]桐生市
- 三ツ堀加茂神社(群馬県桐生市)
- 宮原赤城神社(群馬県桐生市)
- 石鴨天満宮(群馬県桐生市)
- 相生賀茂神社(群馬県桐生市)
- 境野諏訪神社(群馬県桐生市)
- 桐生織姫神社(群馬県桐生市)
- 白髭神社(群馬県桐生市)
- 白瀧神社(群馬県桐生市)
- 梅田日枝神社(群馬県桐生市)
- 比呂佐和神社(群馬県桐生市)
- 桐生西宮神社(群馬県桐生市)
- 美和神社(群馬県桐生市)
- 桐生天満宮(群馬県桐生市)
- 常祇稲荷神社(群馬県桐生市)
- 二渡神社(群馬県桐生市)
- 相生愛宕神社(群馬県桐生市)
- 桐生雷電神社(群馬県桐生市)
- 賀茂神社(群馬県桐生市)
三ツ堀加茂神社(群馬県桐生市)
神社名:加茂神社(かもじんじゃ)
祭 神:別雷神
鎮座地: 群馬県桐生市境野町3-1361
駐車場:あり
-三ツ堀加茂神社 桐生市史神社編由緒-
寛政十一年広沢村賀茂神社社例書上のうち賀茂神社移しの神社(分霊社)近村七ヶ村の中に、「三ツ堀」の記載があり、その当時三ツ堀に賀茂社の鎮座していたことを証明している。社伝によると三ツ堀在住の関口家または下山家の勧請によるものとある。その他は不詳である。
-三ツ堀加茂神社のサカキ 境内案内板-
目通り周囲1.4メートル、根元回り1.7メートル、枝張り東方へ5.4メートル、西方へ3.9メートル、南方へ6.6メートル、北方へ4.8メートル、樹高約13メートル、枝下の直幹6.3メートル、枝葉は四方に伸び、樹勢旺盛なサカキである。樹齢は、推定二百年とされ、サカキとしてはまれにみる巨樹と認められる。
この神社は、慶長年中(1596年〜1614年)に広沢賀茂神社の分霊を勧請したもので、その後、寛延四年(1751年)社殿を再建した。サカキは神社再建の頃植えられたものと思われる。
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宮原赤城神社(群馬県桐生市)
神社名:赤城神社(あかぎじんじゃ)
祭 神:大穴牟遅神 御建名方神 八坂刀売命 倉稲魂命 誉田別尊
鎮座地: 群馬県桐生市川内町2-262
駐車場:境内に数台
-宮原赤城神社 桐生市誌由緒-
由緒は不詳。明治四十四年五月三十一日字西村上ノ諏訪、下ノ諏訪両神社を合併した。大正七年十一月十五日、神饌幣帛料供進社に指定された。
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石鴨天満宮(群馬県桐生市)
神社名:天満宮(てんまんぐう)
祭 神:菅原道真公
鎮座地: 群馬県桐生市梅田町5-560
駐車場:あり
-石鴨天満宮 桐生市誌由緒-
桐生城主由良成繁の重臣藤生紀伊守善久は、諸国遊歴の際、京都北野天満宮から神像を受けて自己の守り本尊としていたが、小田原落城後由良氏は桐生を退散して常州牛久へ移り、その際藤生善久は桐生郷へ土着、善久の弟藤生六右衛門は桐生川上流の此地石鴨に落着したので、神像をここに祀って藤生家の氏神にしたという。大正初年には山地村の村社として村民七十余戸の尊信するところとなり、昭和二十一年六月三十日宗教法人令によって法人化し、昭和二十八年一月二十四日宗教法人法により、知事の認証するところとなった。
相生賀茂神社(群馬県桐生市)
神社名:賀茂神社(かもじんじゃ)
祭 神:賀茂別雷神
鎮座地: 群馬県桐生市相生町1-37
駐車場:境内
-相生賀茂神社 案内板由緒-
当社の創建は天明年間(1781〜1788)如来堂村の名主 津久井儀右衛門(邸宅は当社の北西約百メートルのところにあった)が、渡良瀬川の洪水の憂いを除くため京都 賀茂神社の分霊勧請したもので、毎年九月十五日を祭日とした、と伝承がある。
また広沢村賀茂神社寛政十一年社例書上によると、賀茂神社分霊社近村七社の中に当社が記録されている(寛政十一年は昭和六十年より数えて百八十九年前)。
神社庁の神社明細書には宝暦元年(1751)に式内社賀茂社より分祀とあるので、さらに創建はさかのぼる。
当社は明治から大正初期にかけて特に家内安全ならびに養蚕の神として崇敬された。
現社殿は昭和四十三年旧社殿が損傷著しいために改築されたものである。
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境野諏訪神社(群馬県桐生市)

神社名:諏訪神社(すわじんじゃ)
祭 神:建御名方神
配 神:大日靈命 大山祇命 天児屋根命 市杵島姫命 誉田別尊 宇迦之御魂命 伊弉冉尊 速玉之男命 事解之男命 火産霊命 菅原道真公 大物主命 素盞鳴命 罔象女命 栲機千々姫命 大雷命 底筒男命 中筒男命 表筒男命 高龗命
鎮座地:群馬県桐生市境野町4-854
駐車場:境内に数台

-境野諏訪神社桐生市史神社編由緒-
この社は宝永三年に、長野県諏訪に祀ってある元官幣大社諏訪神社から御神体を分祀したものという。当時諏訪の森は径一米五十糎もあろうという「もみぢ」が六、七本、その他松杉のほか雑木が生い繁って昼でもなお暗いという森で、境内の周囲に池を廻らしていたという。其の後宝暦年間に中根大隅守配下の郷士下山五郎左衛門安信に霊感があり、深く尊信するところとなって特に神殿並びに拝殿を造営し、おごそかに祭祀して今日に及んでいる。明治維新後間もなく森は伐採され、良材をえらんで拝殿を改築した。現在森はない。昭和七年に神楽殿並びに神殿保護のための上屋と幣殿が建設された。また拝殿の周囲の玉垣や神殿の周りの石垣が作られて今日のような境内となったという。
明治四十二年五月に諸社を合併した。本社境内末社九社。字下小友無格社神明宮、並びに同境内末社五社。字諏訪無格社稲荷神社、同境内末社一社、無格社熊野神社、境内末社四社。字間ノ島無格社諏訪神社、同境内末社十二社。
明治四十五年五月三十日。字諏訪無格社菅原神社。
昭和三年一月二十七日幣帛料供進社に指定。
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桐生織姫神社(群馬県桐生市)
白髭神社(群馬県桐生市)

神社名:白髭神社(しらひげじんじゃ)
祭 神:天児屋根命
配 神:宇迦之御魂命 建物御名方命 大物主命 菅原道真公 素盞鳴命 栲機千々姫命 伊弉冊命 倭建命 大雷神
鎮座地:群馬県桐生市西堤町2151
駐車場:あり

-白髭神社桐生市史神社編由緒-
元禄年間の創立と伝えられている。詳細は不明である。
○明治四十二年十一月合併
字東山設楽源作氏前無格社稲荷神社 同末社五社 祭礼初午(月遅れの三月)
字吾嬬山頂無格社吾妻耶神社
字小曾根雷電山頂無格社雷電神社
○明治四十三年二月
字小曾根無格社琴平神社、祭典六月十日
社殿 木造亜鉛葺 3.5坪
白瀧神社(群馬県桐生市)

神社名:白瀧神社(しらたきじんじゃ)
祭 神:天八千々姫神 白滝姫
配 神:大穴牟遅神 素盞鳴命 大産霊命 宇気母智神 大山祇命 木花開那姫命 倉稲魂命 菅原道真公 大雷命 建御名方神 伊邪那岐尊 大物主神
鎮座地:群馬県桐生市川内町5-3288
駐車場:あり

-白瀧神社桐生市史神社編由緒-
社伝。「永久年間女白滝という、故ありて土人仁田山の舎人に嫁し、常に絹布を織ることを好み、その業の精巧ならんことを欲し、八千々姫に祈りて遂に客殿を造営せり、女世を去って後村人配祀して白滝社と称すという。」
この社伝の成立がいつの頃であったか不明であるが、次に引く高山彦九郎の記載は、天明二年(1782)の「沢入道能記」に録されたもので年月が明確である。その年の四月八日沢入遊行の途次、彦九郎は桐原村(大間々町)深沢弥一右衛門宅に宿泊、深沢氏から次のような話を聴いている。
「上略、深沢氏語りけるは、上古此郡より山田部とて都へ夫をのぼせし事ありとぞ、ある御歌合の御時、官女を賜うて(故郷へ)下る。後に官女絹を織りて都へ奉る。是より絹織ることをつたえ国中にひろまる。桐生の奥仁田山に機神天神と号し、官女をまつりあるとかや承る。云々」(高山彦九郎全集)
この後多くの白滝伝説が作られているが、その原型は、おそらくこのようなものであったと思われる。以上彦九郎の伝えた伝承の中で、機神天神という祭神の称号、呼び名のうちに更に古い絹織起源についての民間伝承の型がかくれているように思われるが、これ以上追求する資料はない。
明治四十年十二月二十一日次の諸社を合併認可された。
当社境内末社 菅原社、大平社、産泰社
字柏倉在無格社柏蔵神社(稲荷)、同末社八坂社、菅原社
字宮皆戸在無格社、赤城神社、同末社琴平社、八坂社、愛宕社、雷神社、産泰社、稲荷社、熊野社、菅原社
字十二在無格社諏訪社、同末社大山祇社、熊野社
梅田日枝神社(群馬県桐生市)

神社名:日枝神社(ひえじんじゃ)
祭 神:大山咋命
相 殿:木花開耶姫神 猿田彦命
配 神:菅原道真公 月夜美命 大雷命 天御中主命 大物主命 大国主命
鎮座地:群馬県桐生市梅田町1-481
由緒書:あり(未確認)
駐車場:あり

-梅田日枝神社 桐生市史神社編由緒-
山田郡誌記載の「社伝由緒」によると次の通りである。
「勧請年月詳かならず。或はいう、延文五年の創立なりと云う。当家は桐生家の始祖桐生六郎忠利、治承四年足利又太郎に従い、宇治川先陣の功によりて当地を給り、入部の節かねて陣中の守護神として信仰厚かりし、近江国日吉神社の分霊を請いて祭祀す。是れ即ち当社の創始なり。其後六郎が末裔又六入道行阿国綱にいたり、観応元庚寅年要害の為め桐生檜テキ山城を築きし時、城中の守護神となし、神祠を建てて旗織二流を備え、神木として楠五本を献ず。これによって楠御殿山山王宮と称す。後延文五年国綱当社を檜テキ山の東方に遷し、大いにその面目を改む。国綱の孫三郎豊綱又当社を尊崇する事厚く、野州佐野より清蔵院と称する修験者を呼びよせ、社務並に神事に与らしめ桐生家の祈願所となす。是れより代々の城主相次いで崇敬厚く、天文年中大炊助祐綱の時に至り、領内七社の一として崇め奉れり。又永禄三年上杉謙信近衛竜山公を奉じて桐生城に入り、御屋形に御逗留の節、竜山公桐生の風光を賞して、八景の和歌を詠じて当社に奉献する等当時社運隆昌を極む。然るに元亀二年桐生家新田由良氏と水路を争い、天正元年三月十二日遂に由良氏の攻むる処となりて桐生氏玄に亡ぶ。この時当社は城下山王の木戸際に在りしをもって社頭俄に戦塵の巷と化せり。古記録、神宝等ことごとく兵火のためこれを失えり。是より社頭の荒廃甚だしく、後世山王の御林と称して僅かに小祠を存するのみなりしが、天和ニ年四月以降当所御給地となりし際、郷人協力して当社の再興を計り、旧社地に新殿を建て、又天正戦乱の節村内実相寺の境内に遷せしと云う。大神をも奉遷して上久方村五給の総鎮守と仰ぎ、やや神社の尊厳を復興せり。爾来元禄、宝永、享保と年次を追うて社殿の修理を加え、文政ニ年六月本殿、安政ニ年三月拝殿改築の功成りて維新に至り、明治五年村社となり、同時に旧山王権現の称を廃して日枝神社と改称す。
又伝に云う。当社には古来相殿の神ニ座あり、社家の旧記に「祭神大山咋神相殿ニ座、木花開耶姫神、猿田彦命合せて三座」と見え、天保年中書写の祝詞文にも又三座の神号を列記せり。但し明治十二年調進の明細帳には、右相殿のニ座を載せず。然れども右相殿のニ神はもと当社の信仰上に起因せるを以て、聊か左にその由来を述べん。
そもそも当社は中世両部習合の結果、浮屠氏山王権現と称し猿猴を以てその神使となす等、附会の説にもとずき、彼の猿猴は猿田彦神の御容貌に酷似せるより遂に相殿の神となし、後世婦女俗信の起因を成すにいたれり。又木花開耶姫神は天孫邇々芸命の妃神にましまして、その御子を産み給う時に当り、火中の産殿に入りて恙なく御平産ましませしとの古伝により後世産婦の守護神として是れ又相殿の神と仰ぎ、益々婦女の信仰を集めしが如し。口碑の云うる処に拠れば、当社は中古桐生家繁昌の時代にあたり、内室等の信仰、別けて厚かりしかば、社殿を御屋敷の地内に建てて朝暮日参に便せりと言い、殊に後世に至りては、御神木楠の枝葉を採って安産の霊符となし、是れを煎じて服用すれば、妊婦は乳を潤沢ならしむと言い、恰も神木の枝葉を以て霊薬の如くに尊信して、今猶諸方より来り乞うもの少しとせず。」
明治四十二年一月十一日、上久方居館の無格社琴平神社と境内末社天満宮を合併、同年二月八日同字城ノ前無格社雷電命社を、次いで八月二日には字金沢の無格社出羽神社を合併した。
-桐生城跡日枝神社のクスノキ群-
社殿の左手の四本のクスノキで南北朝時代に桐生国綱が神木として献上したと伝えられる。
暖地性の植物のため一箇所に数株を見ることは珍しい。従って、史木としてのみでなく巨木としても貴重である。
第一樹は、目通り4.1m、樹高24m。第二樹目通り3.7m、樹高22m。第三樹目通り3.6m、樹高23m。第四樹目通り3.2m、樹高25m。第一〜第三樹は約600年、第四樹は約300年の樹齢と推定される。
第三樹は隣接するカヤ木に寄りかかっているため危険であり、上半分の代採等全体的な手入れを昭和五十七年九月に実施した。
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比呂佐和神社(群馬県桐生市)

神社名:比呂佐和神社(ひろさわじんじゃ)
祭 神:大穴牟遅命 他十三柱
鎮座地:群馬県桐生市広沢町3-3811
御朱印:あり
由緒書:あり
駐車場:裏参道入口正面に数台

-比呂佐和神社 由緒書-
勧請年月不詳
勢多郡三夜沢村赤城神社より分霊を請いて祭るという。山田郡誌によると、当社は天正十八年(1590)に伊藤氏によって勧請されたもので、元、赤城山より柏の木を移植して神木とした(この木一丈程の大木となった)ために柏の大赤城と尊称されたという。
明治四十二年無格社を合併し、赤城神社あらため比呂佐和神社とする。
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桐生西宮神社(群馬県桐生市)

神社名:西宮神社(にしのみやじんじゃ)
祭 神:蛭子大神
鎮座地:群馬県桐生市宮本町2-1-1
御朱印:あり
由緒書:あり
桐生西宮神社公式サイト

-桐生西宮神社 由緒書・案内板-
桐生西宮神社は延喜式内上野十二社の一社美和神社の御祭神が大国主命である関係から明治三十四年十月摂津西宮神社の御分霊をいただき商業、工業、農業、交通、海運、漁業等に、霊験あらたかな蛭子大神(恵比寿様)を桐生ヶ岡公園におまつりした神社です。
此の西宮神社を関東一社と申します理由は蛭子大神を御祭神とする神社は桐生だけで各地の恵比寿様は国土開発等に御神徳のある大国主命又事代主命をお祀りした神社であり御祭神の相違から区別されて関東一社と称せられて居ります。
11月19日、20日の例大祭近郷近在は申すまでもなく栃木、埼玉等隣接各県から参拝者は数十万を数え桐生全市に恵比寿講の雰囲気が溢れまれに見る賑やかな大祭典となります。
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美和神社(群馬県桐生市)

上野国延喜式内社:美和神社
神社名:美和神社(みわじんじゃ)
祭 神:大物奇甕玉命 建速須佐之男命
鎮座地:群馬県桐生市宮本町2-1-1
御朱印:あり
由緒書:あり

-美和神社 由緒書-
当社は大和国御諸山神鎮まり坐す「元」官幣大社「現」大神大社と御同神にして創建は人皇十代崇神天皇の御代今を去る弐千有余年前我毛野国に東国鎮護の神として奉斎時恰も天下疾疫大に流行し時天皇之れを憂慮し玉ふ一夜大物主命天皇の御夢に告げて曰く之れ我御心なり宣く我御前を祭祀せば立ち所に息み年亦豊穣國家安穏なるべしと於是御社を御諸山に建立し御神霊を奉斎す此の事大和の御本社由緒記にも見ゆ。
(下野国十二社式内大神神社も同時鎮祭せしものならん)
当社は桓武天皇延暦十五年八月甲戌上野国山田郡美和大神を官社と為すと日本後記に見え後清和天皇貞観四年五月二十五日を以て従五位下勲十二等を授けられ又三代実録に陽成天皇元慶四年五月戌寅従五位の上より正五位以下勲十二等を授けられ其后朱雀天皇白河天皇崇徳天皇高倉天皇後鳥羽天皇土御門天皇亀山天皇後宇多天皇の各朝より位階を賜進せられたり延喜制式内の小社に列せられ国帳従一位美和大明神と記しあり
延享元年八月二十七日神祇道管領卜部朝臣兼確より上野國山田郡園田庄桐生鎮座三輪神社の御神号を贈進せられ。
旧旗本布施孫兵衛斯る古社の釆邑にあることを喜ひ毎年当社へ御供米参斗八舛御燈明料として米八石を慶応四年辰三月迄寄進せらる。
明治五年十一月郷社に列せられ。第二十三大区十二小区の鎮守とす。
明治四十一年七月省令に依り桐生町村社八坂神社を合併。
桐生天満宮(群馬県桐生市)

神社名:桐生天満宮(きりゅうてんまんぐう)
祭 神:天穂日命 菅原道真公
鎮座地:群馬県桐生市天神町1-3-4
御朱印:あり
由緒書:あり
駐車場:あり

-桐生天満宮 由緒書-
今からおよそ1800年前の景行天皇の時代に上毛野国造が土師部の遠祖である天穂日命を磯部の岡に奉斎した磯部明神が当宮の起源です。
その後幾多の星霜を経て、文治三年(1187年)から当地を支配した桐生家が代々の守護神として崇敬し、観応年間(1350年頃)には京都北野天満宮の御分霊を合祀して「桐生天満宮」と改称し、桐生領五十四ヶ村の総鎮守と定められました。天正九年(1581年)に徳川家康公が東征の祈りには徳川家累代祈願所として朱印領を賜わりました。天正十九年(1591年)より徳川家の支配下となり、当宮の鳥居前には新たに「桐生新町」が形成され、鳥居から南へ向かって日本で最初の丁割りに基づく桐生の街並みが整えられました。
慶長五年(1600年)の関ヶ原合戦の折には軍旗に用いる絹織物を社殿に献上して戦勝祈願を行い、その勝利凱旋を吉例として境内に織物市が開設され、後の桐生織物繁栄の礎となりました。
-桐生天満宮 末社春日社-
天満宮本殿の裏側に鎮座する末社の春日神社社殿は、一間社流造の建築様式で、規模は小さいものですが、先日の文化庁建造物課調査官による詳しい調査でも、慶長(1600年)以前の桃山時代頃の建立であると判明しました。このことは、現存する桐生の建造物の中では最古のものであるということです。
桃山時代は戦国乱世の頃で、その時代の建造物の遺存例はきわめて少なく、この「末社春日社」は、中世からの伝統を引き継ぐ地域色の豊かな独自の建造物であり、桐生を代表する大切な文化遺産として、桐生市指定の重要文化財となっております。
-桐生天満宮 社殿-
当宮の社殿は、近世の神社建築の典型とされる権現造の形式で、切妻流破風の本殿および幣殿には精巧で華麗な彫刻が施され、当初は画工の狩野益広が描いた「天満宮本社幣殿拝殿妻之図」のように極彩色に彩られていました。社殿造営は明和八年(1771年)に企図され、安永七年(1778年)に起工、寛政十一年(1799年)九月に落成したものです。造営は、町田主膳栄信によるものですが、彫刻は本殿七面あり、上段には二十四孝の話・下段に唐子遊びの図、他にも細部に至るまで贅を尽くした彫物が社殿と見事に調和しています。
そして、古来「岩の上の天神」と称されるように、本殿・幣殿は岩の上に建ち、当時の建築装飾技術の粋を集めた建造物として、群馬県指定の重要文化財となっております。
常祇稲荷神社(群馬県桐生市)

神社名:常祇稲荷神社(つねぎいなりじんじゃ)
祭 神:倉稲魂命(宇迦之御魂神)
配 神:健御名方神 伊弉冊命 迦具土命 彦狭島命 速須佐々男命 誉田別命 栲機千々姫命
鎮座地:群馬県桐生市仲町3-16-9
御朱印:あり
由緒書:あり
駐車場:あり

-常祇稲荷神社 由緒書-
当社の祭神は、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)で、古くから五穀生産衣食住の守護神として知られている。そのはじめは、江戸時代の初期に、村松村美和神社の神主小島刑部が、今泉村に小社を建立したのによるものと伝えられている。さらに慶長十八年(1613)今泉村常木(現在地)に遷座し、稲荷明神として村民から崇敬され、後に刑部の弟小島民部が神主となった。
正保四年(1647)九月十三日火災のため社殿が全焼し、このとき、内陣にあった幣帛が、たちまち空に舞い上がり、神木の枝に止まった。これを見た村民は、不思議に思い群集して礼拝したといわれている。民部の息子権之助がこの幣帛を下ろして仮屋に奉遷した。これ以後、当社の神徳の高いことが評判となって、参詣者が多くなり、翌慶安元年(1648)には、社殿が再建された。また正徳三年(1713)にも社殿を建替え、同五年(1715)正一位に叙せられた。
こうして当社は、今泉村の氏神であったばかりでなく、桐生新町の町民にも崇敬され、祭礼の日には、全町神灯をかかげて祝ったということである。
なお嘉永元年に、当社の神主小島氏が、江戸域内で行われた、将軍の病気平癒の祈祷に、精進したともいわれている。
明治初年ふたたび火災にあい、社殿を焼失したが、翌二年再建され、今日に至った。さらに同四三年七月諏訪神社・八坂神社などを合祀し、大正八年四月村社となった。
-常祇稲荷神社 桐生市史神社編由緒-
今泉村古事談(享保末年から元文初年の著作)に「常木(祇)稲荷明神の事」という項があり、当社の起源由緒をよく伝えている。
「そもそも常祇稲荷明神は今の林(森)の艮(東北)に当って僅かの(ささやかな)小社あり、一説には愛染明王の祠とも云えり。祭神分明ならず。其頃此林は松村小島摂津(三和社神主)の所持なり。慶長十八年癸丑秋古社を破壊して新社を造立す。今の宮所なり。稲荷明神と崇む。同年九月十三日遷宮あり、よって此日を毎年神事祭礼の日とす。其後に摂津の弟民部を神職とす。正保四年九月十三日此社炎焼す。此内陣の御幣神木の上に飛うつって焼けず。諸人奇異の思いをなし群集してこれを拝す。民部の子権之助此時十三歳童形、之れを降し仮屋に移し、明る慶安元年子の夏、社を造立し、八月朔日の神事と定めたり。今に然り。元禄六年鳥居造立、同十四年より十六年迄境内へ氏子の者杉を植え寄進す。また御供田を寄附す。其後正徳三年に社を造立同十二月廿八日遷宮あり、此時より観音院を社僧と定む。同五年子年に今泉村氏子瑞籬を寄進す。」
また「天正十八年庚寅再写修験旦那帳」によると「常木大夫民部少檀那之分」という記載がある。これが常祇稲荷神主になった小島摂津(刑部)の弟民部であろう。民部は天正末当時既に今泉村常木に住む修験者で近くの小社を別当として管掌していたものであったろう。宝暦三年の桐生新町差出帳には「今泉村稲荷大明神祢宜勘兵衛。三輪明神は上三町(一、二、三丁目)之氏神ニ御座候。下三町(四、五、六丁目)ハ稲荷と申し候。大明神ニ御座候」とある。このような事情から文政元年の「金子太郎兵衛文書」によると、稲荷の祭典には下三町内が神燈をかかげ、美和の祭典には上三町が神燈をかかげるというようなことが慣例になっていたが、このようなことが全町不和の原因になってはという配慮で太郎兵衛等の肝入りでどちらの祭礼にも新町の町神灯をかかげて祝うようになったと伝えられている。常木稲荷は、今泉村の総鎮守であったばかりでなく、新町の町民にも崇敬されていたものであった。
上野国神名帳に記された「山田郡御槐明神」を、当社に比する説が一部に行われている。その理由は今稲荷社の鎮座する土地の周辺は、むかしから「さいかち原」と呼ばれて来たという。神名帳の槐を「さいかち」と読んで地名にあて、両者をむすびつけたものらしい。しかし神名帳には御槐をミヱノと読みをつけたものがあり、両者を混同する理由は薄いらしい。
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二渡神社(群馬県桐生市)

神社名:二渡神社(ふたわたりじんじゃ)
祭 神:猿田彦神
配 神:宇迦之御迦神(倉稲魂命) 大山津見神 速須佐之男命
鎮座地:群馬県桐生市梅田町二渡757

-二渡神社 桐生市史神社編由緒-
上野国誌に「猿石社二渡村にあり、祭神猿田彦命」と記されている。桐生美和神社々家小島家文書「慶安四年卯十月、桐生領七社明神神号」の中に「猿石大明神、山田郡梅田村大字二渡鎮座」と記載されている。猿石社はまた猿田彦神社と古くは称されていた。桐生館の古社の一つである。明治四十一年一月十四日許可により二渡村字上ノ原の無格社八坂神社、字大石窪無格社稲荷神社、字残馬の無格社残馬山神社を合併した。
大正三年九月九日二渡神社と改称を許可された。明治四十四年四月一日に火災にあい、善美を尽した本殿、拝殿、神楽殿を焼失したが、昭和二年二月十七日許可があって新たに社殿を建設した。昭和八年九月二十九日神饌幣帛料供進神社に指定され村社に列した。
相生愛宕神社(群馬県桐生市)

神社名:愛宕神社(あたごじんじゃ)
祭 神:火産霊神
鎮座地:群馬県桐生市相生町2-486
駐車場:社務所裏側に数台

-案内板由緒-
愛宕神社の歴史は古く、慶長三年(1598年)安土桃山時代の創建で京都の愛宕山最高峰に鎮まる、愛宕神社の末社に該する。
祭り神は、火産霊神(ほむすびのかみ)である。
本地佛は、勝軍地蔵(しょうぐんじぞう)である。
この土俵の屋形は、慶応四年(1868年)二月に、江戸相撲、第九代目横綱秀ノ山雷五郎勝義が当神社に奉納した祭礼用相撲土俵である。
古文書によると、横綱の直筆で、屋根付き四本柱土俵と免許状、併せて大張幕と大額を、相生村下新田の恩人である、高木源之丞を取り継ぎ人として村人衆に奉納したものであると記録されている。
神社土俵は、源之丞の勧めもあり江戸相撲界の秀ノ山一門の稽古場として以前から使われていた。
江戸では、横綱のことを愛宕の天狗様と称されていた。
弘化四年(1847年)二月七日には、神社境内土俵で、江戸相撲一行の大興業が行われている。
横綱の土俵を一目見ようと、大入りだったと伝えられている。
国内では、この種の土俵屋形は珍しく、地方に於ける日本三土俵の一つに該当すると、高く評価されている。
現在の屋形は、昭和五十七年に新築奉納されたものである。
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桐生雷電神社(群馬県桐生市)

神社名:雷電神社(らいでんじんじゃ)
祭 神:火雷命
鎮座地:群馬県桐生市錦町1-3-6
駐車場:神社境内に数台

-由緒-
雷電社ハ荒戸五ヶ村ト共ニ小曾根山上ニ祭ル、延宝五年四月五日新宮建立、天和ニ年分給ニツキ上原ヘ祭ル。元文年中ヨリ別当最勝寺祭祀ヲ預カル。寛文七年周東、常見、藤原、須田、荻原、大沢、六家協力シテ上野原坊主山側ヘ雷電宮ヲ勧請シ、五穀豊穣ヲ祈念ス。時ニ天和三年四月一日也。此ヲ以テ毎年祭礼ヲ行イ、右六家ヨリ大梵天ヲ奉納ス。周東ハ発願人ノ故ヲ以テ役ヲ預リ代々雷電社ノ祭典ヲ世話ス。
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賀茂神社(群馬県桐生市)
上野国延喜式内社:賀茂神社
神社名:賀茂神社(かもじんじゃ)
祭 神:賀茂別雷神
配 神:玉依姫命 経津主神 武甕槌神 建御名方神 素盞嗚命 白滝姫命 宇迦之御魂神 外二十柱
鎮座地:群馬県桐生市広沢町6-833
御朱印:あり
由緒書:あり
駐車場:神社入口前道路中央・神社裏側にあり
-賀茂神社 案内板由緒-
創立年代不詳 社伝によると 崇神天皇の朝 豊城入彦命 東国鎮護のため山科国の賀茂神を勧請したと伝えられている 桓武天皇延暦十五年(796)官社に列せらる「日本後記 巻五」陽成天皇元慶四年(881)正五位下勲十二等を授けらる「三代実録」醍醐天皇延喜年間(901頃)諸国の神社御改めあり 三千一百三十余座の内 上野国十二社 中に山田郡下広沢村賀茂沢に賀茂神社御鎮座 式内の社とある (延喜式巻十 神祇十)又 上野国神名帳に「従一位賀茂大明神」と見えている
-賀茂神社 由緒書-
崇神天皇の朝、豊城入彦命が東国鎮護のため山城国賀茂神を勧請したと伝えられ、延歴十五年(796)官社に昇格(日本後記)、元慶四年(881)正五位下勲十二等に昇叙(三代実録)、康保四年(967)上野国十二座のうちの一社に収録(延喜式神名帳)された。口碑によると、寛治元年(1087)源義家は、出羽国の藤原武衡・藤原家衡誅伐のため北上の途中参詣して戦勝を祈願、叛徒を平らげて凱旋のとき報賽の神楽を奏上したと伝えられ、舞楽奉献の遺跡が今も残されている。
-賀茂神社太々神楽-
賀茂神社に伝わる神楽は宮比講社神楽と呼ばれるもので、文化十二年(1815年)に当時の神官である飯塚伊豆正が発起したといわれている。
神楽は式舞と狂舞であり、ともに十二座で計二十四座となっている。とくに狂舞の「屑紙拾い三番曵」は他に見られないめずらしい神楽となっている。
明治維新で一時中断されたが、明治十五年ころ再興された。その後、昭和四十年代に衰退しかかったが、昭和四十八年に神楽保存会が組織され、青年有志が古老から受け継ぎ、今日におよび、毎年春(四月十四日・十五日)、秋(十月十五日に近い日曜日)の例祭に奉納されてる。
-賀茂神社御篝神事-
この神事は、毎年節分(二月三日)の夜におこなわれる。
起源は明らかではないが、文政十三年(1830年)の「社記」に神事の記載があることから、江戸時代末にはすでに実施されていたと考えられる。この神事は戦後中断されていたが、昭和五十四年に復活され、今日に至っている。
神事の内容は、次のとおりである。
神事に参加する氏子たちは、揃いの白装束に着替え、紙を切り抜いてつくった人形に生年月日と名前を記して、これでからだの悪い部分をなでる。そして、氏子たちは拝殿に参集して、人形とともにお祓いを受け、その後、豆まきをおこなう。神官は境内中央に用意された浄薪にお祓いをした人形によって火をつけて、焚き上げる。焚火の中には古札、古神棚、古ダルマなどがくべられる。十分に火がまわると、氏子たちは火のついた浄薪を持って左右にわかれ、両方が見渡せる位置に責任者と太鼓が配される。氏子たちは、太鼓の合図に合せて大声をあげながら、火のついた浄薪を相対する氏子めがけて投げ合う。一回にこれを三度繰り返し、約三十分毎に三回おこなう。
現在は、御篝神事保存会も組織され、役割分担もしっかりしている。このような火をなげあう神事は他には類例もなく、まさに奇祭の一つである。

























