[群馬県]高崎市
鈴宮神社(群馬県高崎市)
神社名:鈴宮神社(すずのみやじんじゃ)
祭 神:木花開那姫命 罔像女命 大山祇命
鎮座地: 群馬県高崎市矢島町220
駐車場:なし(封鎖されている)
-鈴宮神社 高崎市誌由緒-
勧請年月日不詳、当社モト冷宮ト号近古巳来鈴宮ト称セリ、スヽシ義ヲ採レルニテ冷鈴共スヽト訓ス、面シテ鈴ハ仮訓也、本村古来井堤アリ八阪井堤ト号ス、是万葉集ニ載スル所ニシテ社号ハ此井堤水ノスヾシキニ因レリ、上野国神名帳ニ従四位上石井明神ト出タルハ是ナリ
進雄神社(群馬県高崎市)
神社名:進雄神社(すさのおじんじゃ)
祭 神:速須佐之男大神 稲田姫大神 他二十四神
鎮座地: 群馬県高崎市柴崎町801
御朱印:あり
由緒書:あり
駐車場:あり

進雄神社公式サイト
-進雄神社 由緒書-
進雄神社 は貞観十一年(869年)諸国に疫病蔓延の時に、清和天皇の勅掟により尾州津島神社を勧請して当地に創祀され以来千百数十年にわたり、皆様の健康と厄除を御護りし、広く崇敬されてまいりました。
天喜五年(1059年)源頼義公奥州征討の時に当神社を深く崇拝せられ武運長久を祈誓され、凱旋にあたり社殿を修造し神領を寄進されました。戦国時代の武田、上杉、北条等の武将達の書状が今に伝えられ、戦勝祈祷文書や社家の安堵状等篤く崇拝された様子がしのばれます。高崎藩主、箕輪城主より神領が寄進され奉幣の儀が度々行われ、寛永十一年に徳川家光公より御朱印三十石が寄進され、以来幕末まで続いておりました。
明治初年に神仏分離により、それまでの「天王宮」から雄大に進むを祈誓して大神様を社号とする「進雄神社」と改称され平成の御代に総檜、権現造の御社殿を新築造営すると共に神域を整厳しました。
於菊稲荷神社(群馬県高崎市)
神社名:於菊稲荷神社(おきくいなりじんじゃ)
祭 神:倉稲魂命 於菊
鎮座地:群馬県高崎市新町247
御朱印:あり
由緒書:あり
駐車場:あり
於菊稲荷神社公式サイト
-於菊稲荷神社 由緒書-
群馬県多野郡新町橋場町に古くより鎮座いたします稲荷神社は天正十年(1582)八月小田原城主北条氏政と厩橋城主滝川一益と神流川原に於いて、天下分け目の決戦を行いたる時、北条氏は、先祖以来の守護神稲荷の社頭に戦勝祈願をいたしました。その甲斐有りて大勝利を得た北条氏政は、御神徳の偉大さに感激し小祠を立派な社に再建して報賽の誠を捧げ当社の起源となりました。
その後、時移り太平の徳川の御代となりて、新町宿にも幾多の妓楼が立ち並ぶようになりました。宝暦年間(1751〜)大黒屋の娼妓於菊は、新潟の貧農の娘であったが、美貌で気だてもよく、新町随一の売れ妓ともてはやされていた。
稲荷神社に日参りする多くの娼妓達のなかでも、於菊は特に熱心なる信者でした。また子供好きで、境内で遊ぶ子供達にいつも、あめ菓子を買い与えたり一緒に遊んであげたりと子供達親達にとても慕われておりました。しかし、ふと風邪をこじらせた於菊は、ついに足腰たたぬ病となってしまいました。これをとても心配した子供達の親は日頃から於菊が信仰していた稲荷神社に小屋を建て看病を三年間続けました。
彼女の信心、親達、子供達の願い遂に神に通じてか、ある夜半枕辺に稲荷の霊あらわれ不思議に病気も全快いたしました。人々は喜び合って神の恵みと感謝し、彼女は一生涯神明奉仕と世の人々の為に尽すことを決意し稲荷社の巫女となりました。
巫女となった於菊は、日々の神明奉仕を続けるうちに神の霊移ってか神秘的な力を授かりました。彼女の言葉は、天候をはじめとして世上の事の予言また困っている人の手助けをしておりました。
そして人々は、口々に「困った事は稲荷の於菊に聞けばよい」「於菊に聞いて稲荷に参ればよい」と言われておりました。於菊の稲荷、稲荷の於菊と誰言うとなく於菊稲荷神社と呼ばれる様になりました。
その後、益々神社は弥栄えて文化文政から、嘉永初旬まで最も隆盛を極めました。遠くは江戸、横浜、長崎からも参拝する者多く、中には吉原の遊女、歌舞伎の名優、両国の力士、詩人、名僧等枚挙にいとまもありません。社に残る数々の文化財は昔時を語る宝物です。当社に心願をかける時は、何事によらず叶いて、開運、幸運に結びつくことでしょう。
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