倭文神社(群馬県伊勢崎市)

上野国延喜式内社:倭文神社 上野国九の宮
神社名:倭文神社(しとりじんじゃ)
祭 神:天羽槌雄命
配 神:倉稲魂命 木花咲耶姫命 誉田別命 菅原道真命 大己貴命 素盞嗚命 豊受姫命 大山祇命 菊理姫命
鎮座地:群馬県伊勢崎市東上之宮町380
御朱印:あり
由緒書:あり
駐車場:あり

-倭文神社案内板由緒-
当社の御祭神は、天羽槌雄命で、その歴史は古く機織の祖神として、また農耕、養蚕の神として尊崇されてきた。その創建は、人皇第十一代垂仁天皇の御宇三年と伝えられているが、これを明らかにする証跡は、現在不明となっている。
貞観元年(859)に官社に列せられ、従五位下を授けられた。(三代実録) その後、延長五年(927)に撰集された「延喜式」神明帳の中に倭文神社の名が載せられ、上野神明帳には、「従一位倭文大明神」とあって、上野国の九之宮とも称された。
その後、戦国時代の争乱にまきこまれ、一時荒廃したが 徳川氏の江戸入部以来 関東地方も次第に平和をとりもどし、元和年間(1615-23)から寛永年間(1624-43)に入る頃は、社殿も再建され、別当寺として、新義真言宗宮川山慈眼寺が定められ、住持実秀が別当となった。以後近世を通じ倭文神社は慈眼寺の管理下におかれた。三代将軍家光の慶安元年(1648)九月には、御朱印地十石を賜わり、漸く安定した神社経営が行われ、祭事も復興し、神威もいよいよ加わるに至った。その後約八十年を経て、享保十二年(1727)八月には、八代将軍吉宗から社殿再建勧進の許可を得て上野国はもとより、江戸府内からも浄財の寄進を仰ぎ、旧にまさる荘厳な社殿鳥居などが再建され、大いに隆盛をきわめた。しかし、この社殿も慶応二年(1866)十一月九日再度火災に会い、悉く灰燼に帰してしまった。
現在の社殿はその後、明治十三年十月二十四日(上棟)に再建されたものである。なおさきの御朱印地十石の斎田は、明治維新の際上納され、また明治元年の神仏分離令により、別当寺や社僧の制も廃止され、神職によって祭祀される現在の姿となった。その後区内の小社祠の整理合祀も行われ、この間郷社に列せられた。また大正十四年には、神饌幣帛料供進社に指定された。
今次大戦後は、国家神道や社格もなくなり、純粋な上之宮町の鎮守として今日に至っている。

倭文神社は伊勢崎市役所の西、玉村町寄りの利根川近くに鎮座する。
駐車場は境内裏側に数台停められるところがある。
倭文神社は上野国九の宮であり、延喜式内社でもある。
正面入口から入ると朱の両部鳥居。

朱が鮮やかな両部鳥居から真っ直ぐ進むと拝殿。
参道途中右側には社務所がある。
拝殿で参拝。
拍手の音が境内に響く。

社殿を左から回ると、やや大きめの岩が祀られている。
そして本殿。

他に大きな建物として、参道左側に神楽殿がある。

境内右側には道路沿いに鳥居があり、そこからも出入りが出来る。
鳥居のそばには社日。
群馬県は社日が多いような気がする。

東鳥居から入るとすぐに双体の古い道祖神があり、左右に石燈籠がある蚕霊神社が一社鎮座している。
蚕霊神社は昔、この地域で蚕が盛んだったことが伺える。
倭文神社と深い関係がある玉村町の火雷神社境内にも蚕霊神社があるが、こちらは茨城県からの分霊なので繋がりはない。

参道左側には石碑があり、その裏は林になっていた。
周って林の中に入ると境内社。
林の周辺がかつて水があったように堀になっていたので、厳島神社や水神社のような水神を祀る神社だと思う。

本殿の裏側には境内社が沢山並んで鎮座している。
社務所は無人。
宮司さんは神事のときにしかいないそうで、普段は氏子総代の方が御朱印を授与している。
境内はとても心地よく、清清しい。
由緒ある神社で気持ちの良い神社なのに、神職の方が居ないのは勿体無い気もするが止む終えないことなのだろう。
関東の神社をもっと広めよう♪
↓ ↓

読み終わったらブックマーク♪
↓
My Yahoo!に追加
livedoorReaderに追加
[群馬県]伊勢崎市の参拝神社 トラックバック:0 コメント:0 編集
倭文神社(群馬県伊勢崎市)のトラックバック
※トラックバックは言及自動リンクです。リンクを貼ってから送ってください。
倭文神社(群馬県伊勢崎市)へのトラックバックURL
http://kaguraden.blog11.fc2.com/tb.php/321-27d20209




