唐沢山神社(栃木県佐野市)
別格官幣社
神社名:唐澤山神社(からさわやまじんじゃ)
祭 神:藤原秀郷公
鎮座地:栃木県佐野市富士町1409
御朱印:あり
由緒書:あり
駐車場:大型無料駐車場完備

唐澤山神社公式サイト
-唐澤山神社 由緒-
唐澤山は今より一千年の昔「むかで退治」の伝説や天慶の乱で平将門を滅ぼした藤原秀郷公の居城址で標高ニ四〇米ながら全山赤松におおわれ断崖と深い谷に囲まれた自然の要塞をなし、今なお当時をしのぶ遺跡が数多くあります。唐澤山神社の御祭神藤原秀郷公は幼時京都の近郊田原の郷に住んでいたので世に田原(俵)藤太秀郷ともいわれています。公の在世当時(平安朝の中頃)は都の朝廷では藤原氏が代々摂政や関白になって政治の実権をにぎっていましたが一族の間で政権争いがくりかえされ、そのために都の政治が乱れてくると地方の政治もゆるみ土着の豪族などが欲しいままに勢力をふるってくるようになり、時に公は延長五年(927年)に下野国(栃木県)の警察にあたる押領使という役に任ぜられ父祖伝来の此の地に参られ唐澤山に城を築いて善政を施していた。
たまたまこの頃桓武天皇の流れをくむ平将門は父の残した領地のことから叔父の国香を殺し、しだいに勢力を増し天慶二年(939年)頃から関東八ヵ国(上総、常陸、上野、下野、武蔵、相模、伊豆)の国府を順次攻めたて国府の長官を京に護送して関東地方の大部分を支配してしまい、自ら親皇と称し、朝廷の命令を聞こうとせず、このように将門が地方で乱暴を働くのをみかねた朝廷では藤原忠文に征東大将軍の職を与え将門征伐に出発させ、その軍が到着する前に秀郷公は平貞盛と力を合せて、将門の軍を下総国幸島において攻めほろぼし、時に天慶三年二月十四日世にこれを天慶の乱と言います。公はこの功績により押領使から下野守(栃木県の長官)になり、さらに武蔵守の役も兼任するようになり従四位下へと進み、その手柄に対し朝廷より土地一功田が与えられました。その後代々子孫が城主となり、約七〇〇年間、佐野修理大夫信吉公の代まで続き、徳川幕府の初期、現在の城山公園の地に城を移し春日城とよばれました。この春日城がまだ完成しない一六一三年(慶長十八年)大名としての佐野家は徳川氏の政策により断絶、城主佐野信吉は信州松本城にお預けとなりましたが、ニ三年の後時の三代将軍家光から赦免の恩命に浴し、信吉の二人の子供は旗本として佐野家を再興することができました。一八六七年(慶応三年)廃藩置県により士族となり明治を迎え、ここに至り一族、旧臣、相謀って沢英社と東明会を組織して秀郷公の遺徳をしのび明治十六年九月ニ五日本丸跡に神社を創建して同年一〇月ニ五日に秀郷公の御霊を奉斎し、以後永くこの地方の守護神として尊崇されております。
-唐澤山神社参拝記-
唐澤山神社は栃木県佐野市、佐野市役所を旧田沼町方面へ北へ進んだ唐澤山山頂に鎮座する。
犬伏の交差点を真っ直ぐ進むと一の鳥居が見えてきた。
右の鳥居は右側に鎮座している露垂根神社の鳥居。
駐車場は大きな専用無料駐車場があるので大抵は停められるだろう。
売店もあり、ドライブやツーリングにもいいようだ。
参拝日の参拝者は多かった。
紅葉の時期というのもあるのだろう。
入って右側に天狗岩。
登ってみると、見晴らしのいい展望台となっている。
天狗岩から戻って参道を行くと、すぐ大炊の井がある。
「築城のさい厳島大明神に祈請をしその霊夢により掘ると水がこんこんと湧き出たとの事である深さ九米直径八米あり今日まで水がかれたことがない」
と立て札に書いてあった。
参道は紅葉が綺麗だった。
城跡なのでゆるい上り坂になっている。
石段を登って行くと神門が見えてくる。
このくらいの階段で息があがってしまった。
拝殿で参拝を済ませて、一休み。
本殿は拝殿の裏に別に建てられていて、中々見事な建物だ。
境内には和合稲荷神社と竜神宮が鎮座している。
社務所は参道沿いにあり、石段の右側。
御朱印とパンフレットを頂いた。
唐澤山神社は明治時代に神社になった神社としては新しい神社。
城跡なだけに、要塞のような境内だった。
ちょっとしたハイキングに家族で行くのも向いているようだ。
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