菖蒲神社(埼玉県菖蒲町)

神社名:菖蒲神社(しょうぶじんじゃ)
祭 神:袋田大明神(奇稲田姫命) 鷲宮大明神(武蝦夷鳥命) 久伊豆大明神(大己貴命)
鎮座地:埼玉県南埼玉郡菖蒲町菖蒲552
御朱印:あり
由緒書:あり(未確認)
駐車場:境内に駐車スペースあり

-菖蒲神社 案内板-
菖蒲神社は、古くは袋田社、袋田明神社とも呼ばれ、奇稲田姫命を祭神とする神社で、境内は東西二十五間(約45m)、南北四十三間(約77m)で、面積は1715坪を有していた。
現在の祭神は、袋田大明神、鷲宮大明神(武蝦夷鳥命)、久伊豆大明神(大己貴命)の三神で、五穀豊穣、厄除、病気平癒に霊験あらたかという。御神体は銅鏡で、本地薬師の像が彫られており、裏に寛文九年(1669)九月の銘がみられる。
新編武蔵風土記稿には末社として稲荷天神合社、雷電社、大黒天金毘羅秋葉聖徳太子合社があり、ほかに村内には稲荷社(村民持)、愛宕社(慈眼院持)、若宮八幡社、三所権現社があったと記されている。
毎年一月十五日には、注連飾や古いお札を持ちより左義長が行われる。左義長は「どんど焼き」ともいわれ、長い竹数本を立て、門松や書初めなどを焼き、その火で焼いたモチを食べると一年間の病が除かれるというものである。
なお、三月下旬から五月下旬までの二、七の日には、鳥居前の通りに植木市が立ち賑わっている。
神社巡り 〜宇都宮市周辺編〜
参拝神社:楡木神社・根裂神社・宇都宮二荒山神社・雷神社・蒲生神社・塙田八幡宮・今泉八坂神社
御朱印:宇都宮二荒山神社・宇都宮二荒山神社(恵比寿)・今泉八坂神社
由緒書:宇都宮二荒山神社・蒲生神社・今泉八坂神社
所要時間:4.5時間くらい
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中村八幡宮御朱印(栃木県真岡市)
中村八幡宮社務所で御朱印を戴く。
由緒書は無いそうなので、境内案内板を参照して欲しいとのこと。
参拝時期は桜が散り始めた頃、境内の桜もほぼ終わり。
二人組みの参拝者が境内を出ると、私だけになった。
贅沢なひと時。
流鏑馬が行われる長い参道を天気の良い日に歩くのも気持ち良さそうだ。
桐生西宮神社(群馬県桐生市)

神社名:西宮神社(にしのみやじんじゃ)
祭 神:蛭子大神
鎮座地:群馬県桐生市宮本町2-1-1
御朱印:あり
由緒書:あり
桐生西宮神社公式サイト

-桐生西宮神社 由緒書・案内板-
桐生西宮神社は延喜式内上野十二社の一社美和神社の御祭神が大国主命である関係から明治三十四年十月摂津西宮神社の御分霊をいただき商業、工業、農業、交通、海運、漁業等に、霊験あらたかな蛭子大神(恵比寿様)を桐生ヶ岡公園におまつりした神社です。
此の西宮神社を関東一社と申します理由は蛭子大神を御祭神とする神社は桐生だけで各地の恵比寿様は国土開発等に御神徳のある大国主命又事代主命をお祀りした神社であり御祭神の相違から区別されて関東一社と称せられて居ります。
11月19日、20日の例大祭近郷近在は申すまでもなく栃木、埼玉等隣接各県から参拝者は数十万を数え桐生全市に恵比寿講の雰囲気が溢れまれに見る賑やかな大祭典となります。
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磐裂根裂神社御朱印(栃木県壬生町)
磐裂根裂神社の社務所で御朱印を戴く。
宮司さんには電話連絡すると参拝日は日が良いそうで不在だった。
午後なら社務所にいるとのことで、お忙しい中時間を作って戴いた。
早朝の参拝から再び参拝する
。
神紋は三つ巴で、お願いして御朱印にも捺して戴いた。
待っている間、御守りを眺めていると天然石御守りが目に付いた。
磐と石、そんな連想。
オレンジ色の天然石御守りを選び一緒に戴く。
由緒書や夢福神スタンプは拝殿の前に置かれているので、宮司さんが不在でも戴ける。
美和神社(群馬県桐生市)

上野国延喜式内社:美和神社
神社名:美和神社(みわじんじゃ)
祭 神:大物奇甕玉命 建速須佐之男命
鎮座地:群馬県桐生市宮本町2-1-1
御朱印:あり
由緒書:あり

-美和神社 由緒書-
当社は大和国御諸山神鎮まり坐す「元」官幣大社「現」大神大社と御同神にして創建は人皇十代崇神天皇の御代今を去る弐千有余年前我毛野国に東国鎮護の神として奉斎時恰も天下疾疫大に流行し時天皇之れを憂慮し玉ふ一夜大物主命天皇の御夢に告げて曰く之れ我御心なり宣く我御前を祭祀せば立ち所に息み年亦豊穣國家安穏なるべしと於是御社を御諸山に建立し御神霊を奉斎す此の事大和の御本社由緒記にも見ゆ。
(下野国十二社式内大神神社も同時鎮祭せしものならん)
当社は桓武天皇延暦十五年八月甲戌上野国山田郡美和大神を官社と為すと日本後記に見え後清和天皇貞観四年五月二十五日を以て従五位下勲十二等を授けられ又三代実録に陽成天皇元慶四年五月戌寅従五位の上より正五位以下勲十二等を授けられ其后朱雀天皇白河天皇崇徳天皇高倉天皇後鳥羽天皇土御門天皇亀山天皇後宇多天皇の各朝より位階を賜進せられたり延喜制式内の小社に列せられ国帳従一位美和大明神と記しあり
延享元年八月二十七日神祇道管領卜部朝臣兼確より上野國山田郡園田庄桐生鎮座三輪神社の御神号を贈進せられ。
旧旗本布施孫兵衛斯る古社の釆邑にあることを喜ひ毎年当社へ御供米参斗八舛御燈明料として米八石を慶応四年辰三月迄寄進せらる。
明治五年十一月郷社に列せられ。第二十三大区十二小区の鎮守とす。
明治四十一年七月省令に依り桐生町村社八坂神社を合併。
桐生天満宮(群馬県桐生市)

神社名:桐生天満宮(きりゅうてんまんぐう)
祭 神:天穂日命 菅原道真公
鎮座地:群馬県桐生市天神町1-3-4
御朱印:あり
由緒書:あり
駐車場:あり

-桐生天満宮 由緒書-
今からおよそ1800年前の景行天皇の時代に上毛野国造が土師部の遠祖である天穂日命を磯部の岡に奉斎した磯部明神が当宮の起源です。
その後幾多の星霜を経て、文治三年(1187年)から当地を支配した桐生家が代々の守護神として崇敬し、観応年間(1350年頃)には京都北野天満宮の御分霊を合祀して「桐生天満宮」と改称し、桐生領五十四ヶ村の総鎮守と定められました。天正九年(1581年)に徳川家康公が東征の祈りには徳川家累代祈願所として朱印領を賜わりました。天正十九年(1591年)より徳川家の支配下となり、当宮の鳥居前には新たに「桐生新町」が形成され、鳥居から南へ向かって日本で最初の丁割りに基づく桐生の街並みが整えられました。
慶長五年(1600年)の関ヶ原合戦の折には軍旗に用いる絹織物を社殿に献上して戦勝祈願を行い、その勝利凱旋を吉例として境内に織物市が開設され、後の桐生織物繁栄の礎となりました。
-桐生天満宮 末社春日社-
天満宮本殿の裏側に鎮座する末社の春日神社社殿は、一間社流造の建築様式で、規模は小さいものですが、先日の文化庁建造物課調査官による詳しい調査でも、慶長(1600年)以前の桃山時代頃の建立であると判明しました。このことは、現存する桐生の建造物の中では最古のものであるということです。
桃山時代は戦国乱世の頃で、その時代の建造物の遺存例はきわめて少なく、この「末社春日社」は、中世からの伝統を引き継ぐ地域色の豊かな独自の建造物であり、桐生を代表する大切な文化遺産として、桐生市指定の重要文化財となっております。
-桐生天満宮 社殿-
当宮の社殿は、近世の神社建築の典型とされる権現造の形式で、切妻流破風の本殿および幣殿には精巧で華麗な彫刻が施され、当初は画工の狩野益広が描いた「天満宮本社幣殿拝殿妻之図」のように極彩色に彩られていました。社殿造営は明和八年(1771年)に企図され、安永七年(1778年)に起工、寛政十一年(1799年)九月に落成したものです。造営は、町田主膳栄信によるものですが、彫刻は本殿七面あり、上段には二十四孝の話・下段に唐子遊びの図、他にも細部に至るまで贅を尽くした彫物が社殿と見事に調和しています。
そして、古来「岩の上の天神」と称されるように、本殿・幣殿は岩の上に建ち、当時の建築装飾技術の粋を集めた建造物として、群馬県指定の重要文化財となっております。
橋姫社-神橋-御朱印(栃木県日光市)
神橋左側の授与所で御朱印を戴く。
渡橋券を購入するときに御朱印をお願いしておいた。
天気は雨だが、この神橋を渡るために日光へ来たので気分はウキウキ。
団体さんが渡るのを待って、1人だけで渡れるのを待つ。
雨に濡れた神橋は朱が鮮やかになり、とても美しい。
神橋を渡って戻ってくると、すでに書かれて置かれていた。
橋姫社の御朱印なのに神橋と書かれていたのが少し残念。
恐らく記念的な意味が強いのだろう。
次回戴く機会があったら橋姫社で戴こうと思った。
調神社(埼玉県さいたま市浦和区)

武蔵国延喜式内社:調神社
神社名:調神社(つきじんじゃ)
祭 神:天照皇大神 豊宇気姫命 素戔鳴尊
鎮座地:埼玉県さいたま市浦和区岸町3-17-25
御朱印:あり
由緒書:あり

-調神社 由緒書-
浦和駅の南西約五百米、旧中仙道東側に鎮座。旧県社で御祭神は天照皇大神、豊宇気姫命、素盞鳴尊の三柱を祀る。社名を調(つき)神社。
地元では「つきのみやさま」と愛称されている。
「調宮縁起」によれば、第十代崇神天皇の勅命により創建。調とは「租・庸・調」の調で、伊勢神宮へ納める貢(調)物の初穂を納めた倉庫群の中に鎮座していたと伝わる。(鳥居無きはその為と伝わる)平安時代に編集された「延喜式」に記載される武蔵国四十四座のうちの一社である。
中世、調が月と同じ読みから、月待信仰に結びつき、江戸時代には月読社とも呼ばれ、月神の使いとされる兎の彫刻が旧本殿や現在の社殿に、狛犬の代わりに兎の石像が境内入口両側にある。
神域は約一万二千平米。欅、銀杏の大樹が鬱蒼と茂る鎮守の杜と、江戸時代末に建立の権現造の社殿が、悠久の歴史を今に伝えている。
毎年十二月十二日には「十二日まち」が開催。
神社では「かっこめ」を領布、境内を中心に縁起物の熊手をはじめ様々な露店が立ち並び、近在からの人手で賑う。
御利益は、運否天賦の「ツキはツキを呼ぶ」との謂れから、幸運を授かる信仰とされる。
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日光二荒山神社中宮祠御朱印(栃木県日光市)
日光二荒山神社中宮祠の社務所で御朱印を戴く。
どの御朱印帳で戴こうかと悩んだが、日光二荒山神社で購入した御朱印帳にすることにした。
日光方面で使うのにわかりやすいと思ったからだ。
御朱印帳を渡すと、神職の方が皆さん字が達筆ですねと言っていたが中宮祠の御朱印に書かれた字も充分達筆。
あとは奥宮の御朱印で日光二荒山神社系の御朱印が揃うがいつになることやら。
帰りに七福神を探し、巫女さんに記念品を戴く。
七福神探しはちょっとした楽しみでもあった。
常祇稲荷神社(群馬県桐生市)

神社名:常祇稲荷神社(つねぎいなりじんじゃ)
祭 神:倉稲魂命(宇迦之御魂神)
配 神:健御名方神 伊弉冊命 迦具土命 彦狭島命 速須佐々男命 誉田別命 栲機千々姫命
鎮座地:群馬県桐生市仲町3-16-9
御朱印:あり
由緒書:あり
駐車場:あり

-常祇稲荷神社 由緒書-
当社の祭神は、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)で、古くから五穀生産衣食住の守護神として知られている。そのはじめは、江戸時代の初期に、村松村美和神社の神主小島刑部が、今泉村に小社を建立したのによるものと伝えられている。さらに慶長十八年(1613)今泉村常木(現在地)に遷座し、稲荷明神として村民から崇敬され、後に刑部の弟小島民部が神主となった。
正保四年(1647)九月十三日火災のため社殿が全焼し、このとき、内陣にあった幣帛が、たちまち空に舞い上がり、神木の枝に止まった。これを見た村民は、不思議に思い群集して礼拝したといわれている。民部の息子権之助がこの幣帛を下ろして仮屋に奉遷した。これ以後、当社の神徳の高いことが評判となって、参詣者が多くなり、翌慶安元年(1648)には、社殿が再建された。また正徳三年(1713)にも社殿を建替え、同五年(1715)正一位に叙せられた。
こうして当社は、今泉村の氏神であったばかりでなく、桐生新町の町民にも崇敬され、祭礼の日には、全町神灯をかかげて祝ったということである。
なお嘉永元年に、当社の神主小島氏が、江戸域内で行われた、将軍の病気平癒の祈祷に、精進したともいわれている。
明治初年ふたたび火災にあい、社殿を焼失したが、翌二年再建され、今日に至った。さらに同四三年七月諏訪神社・八坂神社などを合祀し、大正八年四月村社となった。
-常祇稲荷神社 桐生市史神社編由緒-
今泉村古事談(享保末年から元文初年の著作)に「常木(祇)稲荷明神の事」という項があり、当社の起源由緒をよく伝えている。
「そもそも常祇稲荷明神は今の林(森)の艮(東北)に当って僅かの(ささやかな)小社あり、一説には愛染明王の祠とも云えり。祭神分明ならず。其頃此林は松村小島摂津(三和社神主)の所持なり。慶長十八年癸丑秋古社を破壊して新社を造立す。今の宮所なり。稲荷明神と崇む。同年九月十三日遷宮あり、よって此日を毎年神事祭礼の日とす。其後に摂津の弟民部を神職とす。正保四年九月十三日此社炎焼す。此内陣の御幣神木の上に飛うつって焼けず。諸人奇異の思いをなし群集してこれを拝す。民部の子権之助此時十三歳童形、之れを降し仮屋に移し、明る慶安元年子の夏、社を造立し、八月朔日の神事と定めたり。今に然り。元禄六年鳥居造立、同十四年より十六年迄境内へ氏子の者杉を植え寄進す。また御供田を寄附す。其後正徳三年に社を造立同十二月廿八日遷宮あり、此時より観音院を社僧と定む。同五年子年に今泉村氏子瑞籬を寄進す。」
また「天正十八年庚寅再写修験旦那帳」によると「常木大夫民部少檀那之分」という記載がある。これが常祇稲荷神主になった小島摂津(刑部)の弟民部であろう。民部は天正末当時既に今泉村常木に住む修験者で近くの小社を別当として管掌していたものであったろう。宝暦三年の桐生新町差出帳には「今泉村稲荷大明神祢宜勘兵衛。三輪明神は上三町(一、二、三丁目)之氏神ニ御座候。下三町(四、五、六丁目)ハ稲荷と申し候。大明神ニ御座候」とある。このような事情から文政元年の「金子太郎兵衛文書」によると、稲荷の祭典には下三町内が神燈をかかげ、美和の祭典には上三町が神燈をかかげるというようなことが慣例になっていたが、このようなことが全町不和の原因になってはという配慮で太郎兵衛等の肝入りでどちらの祭礼にも新町の町神灯をかかげて祝うようになったと伝えられている。常木稲荷は、今泉村の総鎮守であったばかりでなく、新町の町民にも崇敬されていたものであった。
上野国神名帳に記された「山田郡御槐明神」を、当社に比する説が一部に行われている。その理由は今稲荷社の鎮座する土地の周辺は、むかしから「さいかち原」と呼ばれて来たという。神名帳の槐を「さいかち」と読んで地名にあて、両者をむすびつけたものらしい。しかし神名帳には御槐をミヱノと読みをつけたものがあり、両者を混同する理由は薄いらしい。
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宮原八幡宮御朱印(栃木県那須烏山市)
宮原八幡宮の社務所で御朱印を戴く。
参拝時、社務所は留守だったので隣の宮司さん宅へ向かうと、宮司さんが芝刈り機で除草作業をしていた。
作業を中断させて申し訳なく思いながらも御朱印をお願いする。
とちぎ神社ガイドにもお願いすると、結構集めている人が多いことを聞く。
全部集めた人はいるのだろうか。
宮司さんにお聞きしたところ、意外と集めている方は多いそうだ。
御朱印帳を見てなのか、宮原八幡宮は他の神社と比べてどうですか?と聞かれたので素晴らしい神社ですと答えた。
社交辞令ではなく、実際境内は木々に覆われて清清しくとても気持ちが良い素晴らしい神社だ。
テンプレ作成中
ブログっぽくないブログですが、それに拍車をかけようかと思いまして。
ネスケだと今のテンプレじゃ、バグるらしいですし。
見やすい、使いやすいをモットーに作ってますよ。
ただ、HTMLだけじゃなくてブログのFC2専用タグがわからなくて難航中。
特にTBがどうもうまくいかない・・・。
TB投稿テスを人柱にお願いするか。
ベースは神社の朱が好きなので赤。
え、これがブログ?みたいの目指して頑張ってます。
来週中には完成できるかもしれない?
更新はなるべく出来るようにしようかと思ってます。
足利伏見稲荷神社(栃木県足利市)
鷲子山上神社御朱印(栃木県那珂川町)
鷲子山上神社の栃木県側社務所で御朱印を戴く。
参拝時、栃木県側も茨城県側も社務所は誰もいなかった。
御朱印を諦めて、お昼時だったのもあり茶屋で昼食をとる。
お店の方と話をして、社務所には誰も居ないのか尋ねるとどうやら社務所の方はここで休憩していたようだ。
なので食べ終わってから御朱印を捺して戴いた。
茨城県側は別の神社が管理しているので御朱印があるかどうかわからない。
御朱印帳も無地の定番のならあるそうだ。
由緒書は栃木県側の社務所に置いてあった
。
茨城県側の社務所はお祭りなどイベント時にしか居ないそうなので少し残念。
もしかしたら茨城県側は栃木県側と違う御朱印があるのかもしれない。
天気が良く、神社も木々も気持ちが良い。
蕎麦もとても美味しかったので大満足した。
世良田東照宮(群馬県太田市)

神社名:世良田東照宮(せらだとうしょうぐう)
祭 神:徳川家康公
配 神:菅原道真公 倉稲魂命 須佐之男命 伊弉冉命 火産霊命 大穴牟遅命 誉田別命 建御名方神 豊城入彦神
鎮座地:群馬県太田市世良田町3119-1
御朱印:あり
由緒書:あり
駐車場:あり
世良田東照宮公式サイト

-世良田東照宮 案内板-
元和二年(1616)徳川家康は駿府(静岡市)で七十五年の生涯を閉じた。遺命により、遺体は一旦駿府郊外の久能山に葬られ、翌年下野国日光に改葬された。それより二十年の後、社殿は三代家光によって全面的に改築され、今日の東照宮が完成した。当時日光輪王寺と長楽寺の住職を兼ねていた天海は、旧社殿の一部を長楽寺元境内に移築して東照宮を勧請した。当地が徳川氏発祥の地であり、当寺が徳川義季開基とする寺だからである。幕府は、長楽寺をその別当寺としてその管理や祭祀に当らせ、二百石の社領を与え、その社殿の修理や祭祀の費用は幕府の財政によって賄われることになった。桁行五間・梁間三間の拝殿は、日光奥社の拝殿を移したものである。家康の最初の墓標として建てられた多宝塔もここに移され、本地堂(俗に塔の薬師)として、明治初年までその豪華な姿をとどめていた。
東照宮の鎮座により地元世良田の住民はもとより、近隣十数か村の住民は、東照宮の火の番を奉仕することによって道中取郷を免除されたり、幕府によって開削された神領用水の利用を許されたり、種々の恩典に浴することができた。
寛永二十一年(1644)に遷宮式が行われた。
-世良田東照宮 由緒書-
寛永二十一年(1644)、三代将軍徳川家光公は、世良田が徳川氏の先祖の地ということから、日光東照宮古宮(元和年間造営の奥宮)を移築し、家康公をお祀りしました。奉斎にあたり家光公から御神領二百石が寄進され、以後、幕府の手厚い保護を受け、徳川家代々礼敬を尽くされました。東照宮の御鎮座は文化・経済の発展を助長し、世に「お江戸見たけりゃ世良田へござれ・・・」と謡われました。
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健武山神社御朱印(栃木県那珂川町)
健武山神社の宮司宅で御朱印を戴く。
電話連絡すると、神社の右側が宮司さんの自宅だった。
宮司さんに境内社について聞くと、古文書の紐を解いてわざわざ調べてくれた。
健武山神社の由緒書は無いそうで、境内の案内板を参考にするか「下野の十二古社めぐり」(下野式内社顕彰会)を参考にして欲しいとのこと。
境内は粛々とし、厳格な雰囲気が古代産金の里という重要なポイントに相応しい。
冠稲荷神社(群馬県太田市)
神社名:冠稲荷神社(かんむりいなりじんじゃ)
祭 神:宇迦之御魂大神 外二十柱
鎮座地:群馬県太田市細谷町1
御朱印:あり
由緒書:あり
駐車場:大型駐車場完備
-冠稲荷神社 案内板由緒-
当神社は、往昔、宿窪明神(宿穴伏明神)と号し、上野国神名帳に名を留める古社で、創建は古代と伝わる。
当地細谷は、古代は蛇川両縁の窪地なるために宿窪と称し、のちに地勢恰も山間の谷の如し、故に細谷と改称すと地誌にある。
天治二年(1125)源義国公は、館の丑寅に当る当社を鬼門鎮護の霊場とし、源氏一門守護の氏神を鎮祭した。この時をもって当社御鎮座とした。義国公は、皇統第五十六代、清和天皇の子孫にして、清和源氏第五代源義家の嫡子である。義国公の長子は新田家の開祖、新田義重であり、次子は、足利家の開祖、足利義兼である。
故に、義国公は、中世以降を司った源家一門の始祖といわれる。
承安四年(1174)源義経公十五歳にして源氏再興を志し、奥州へ下向した。その折、当社に仮泊し、深更社殿の深奥に瑞光をみた。そして自身の曾祖父源義親の弟義国公ゆかりの社と知り、元服の時、冠(鳥帽子)の中に勧請してきた伏見稲荷大社のご分霊を鎮祭した。以来、伏見稲荷大社の分祀社として崇敬されるようになった。
新田義貞公は若年の頃より当社への崇敬厚く、常用の四十二間筋兜(国宝)に稲荷大明神の神名を刻み、数多の神領、宝物を奉納し、年中五十三度の祭禮を当社にて執行した。
元弘三年(1333)鎌倉幕府討伐の兵を挙げたとき、神前に戦勝を祈願し兜の中に神霊の来臨を請えば、種々不思議の感応があったという。以来新田家は北条氏を滅ぼす偉功をあげたのは、当神社の神威によるものと崇敬益々深厚にしたという。
当社は稲荷大明神と称したが、村人は義経公、義貞公の故事を尊び、江戸時代中期より「冠稲荷」と呼び習わした。この由縁をもって、明治維新の折、名を冠稲荷神社と改めた。
-冠稲荷神社 由緒書-
古墳時代六世紀より千五百年の間、義経公冠奉安を始め、数々の歴史を見つめ、祭祀祭礼が行われてきた宮の森。
冠稲荷神社は、平安時代の天治二年(1125)、新田氏の始祖新田義重公の父、源義国公創建と伝えられ、伏見、豊川、信田、王子、妻恋、田沼と合わせ、日本七社のひとつといわれている。
承安四年(1174)源義経公は奥州下向の折、当社が源氏ゆかりの社であることを知り、冠の中に勧請してきた京都伏見稲荷大社の御分霊を鎮祭。
また、時を経て、新田義貞公は元弘三年(1333)鎌倉幕府討伐の兵を挙げるにあたり当社神前にて兜の中に神霊の来臨を請い戦勝を祈願されたと伝えられている。
この故事にちなみいつしか冠稲荷大明神と人々から呼ばれるようになったという。
栃木神明宮御朱印(栃木県栃木市)
神明宮の授与所で御朱印を戴く。
境内はまだ正月の雰囲気があり、参拝者も多い。
宮司さんに御朱印をお願いし、授与品を眺めていると「とちぎ神社ガイド」なるものを見つけた。
栃木県内の神社が掲載されていて、各神社の欄に御朱印もしくは社務所印などを捺してもらうそうだ。
由緒書と、とちぎ神社ガイドも戴いてホクホクで家路に着く。
神明宮の授与所で御朱印を戴く。
前回参拝したときに戴いた「とちぎ神社ガイド」の神明宮のところに印を貰い忘れてしまったというのもあって、再び参拝。
授与所では若い神職の方が対応して戴いたが、何やらメールが忙しいようで。
携帯片手にペタペタと社名スタンプと御朱印を捺す。
アルバイトなのだろうか。
あまり良い気はしないが、手書きとスタンプの両方が揃ったので良しとしよう。
二渡神社(群馬県桐生市)

神社名:二渡神社(ふたわたりじんじゃ)
祭 神:猿田彦神
配 神:宇迦之御迦神(倉稲魂命) 大山津見神 速須佐之男命
鎮座地:群馬県桐生市梅田町二渡757

-二渡神社 桐生市史神社編由緒-
上野国誌に「猿石社二渡村にあり、祭神猿田彦命」と記されている。桐生美和神社々家小島家文書「慶安四年卯十月、桐生領七社明神神号」の中に「猿石大明神、山田郡梅田村大字二渡鎮座」と記載されている。猿石社はまた猿田彦神社と古くは称されていた。桐生館の古社の一つである。明治四十一年一月十四日許可により二渡村字上ノ原の無格社八坂神社、字大石窪無格社稲荷神社、字残馬の無格社残馬山神社を合併した。
大正三年九月九日二渡神社と改称を許可された。明治四十四年四月一日に火災にあい、善美を尽した本殿、拝殿、神楽殿を焼失したが、昭和二年二月十七日許可があって新たに社殿を建設した。昭和八年九月二十九日神饌幣帛料供進神社に指定され村社に列した。
安住神社御朱印(栃木県高根沢町)
安住神社の授与所で御朱印を戴く。
早朝だったので、拝殿内や境内では掃除が行われていた。 本殿を眺めていると若い神職さんと合い、雑談をしてから御朱印をお願いする。
しかしまだ奉職してから日が浅いので筆を持たせてもらえてないそうだ。 御朱印を書いて戴ける禰宜さんはエアー掃除機で境内清掃中。 無理を言って若い神職の方にお願いして捺して戴いた。
御朱印を戴いたが、もしかしたら後日注意されるかもしれない。 悪いことをしたなと、お詫びしたいと思う。
伊与久雷電神社(群馬県伊勢崎市)
神社名:雷電神社(らいでんじんじゃ)
祭 神:大雷命
配 神:高於加美命 火産霊命 罔象女命 健御名方命 天照大神 保食命 倉稲魂命 菅原道真命 誉田別命 櫛御気野命 最上神 大物主命 素盞鳴命 日本武命
鎮座地:群馬県伊勢崎市境伊与久3581
御朱印:あり(管理人在中時)
駐車場:あり
-雷電神社 社務所案内由緒-
当社は順徳天皇の建保六年(1215)三月二十五日に、赤石城主(伊勢崎)三浦之介義澄が創建したと伝えられる。上野国神名帳に「従四位上高於神明神」と記されるのが当社である。後醍醐天皇の元弘三年(1333)三月、新田三衛門佐義貞が鎌倉追討の際に社殿を修理し、戦勝祈願祭を行った。正親町天皇の永禄三年(1560)には、赤石左衛門尉・同又次郎の領有となるや領土の安全を祈り、祭供料と神領を寄進した。明正天皇の寛永十四年(1637)、伊勢崎城主河内守忠行は社殿を修覆し祭米を奉り、霊元天皇の延宝九年(1681)には酒井下野守忠寛が領主となるや社殿を修理した。また後桜町天皇の明和四年(1767)にいたり、酒井駿河守忠温が社殿を修覆して祈雨の祭典を行った。このように江戸時代にあっては領主酒井家の崇敬とくに篤く、累世修理や祭米・奉幣を得てきたが、明治維新後は郷土の鎮守神として氏子の尊崇するところとなり、明治四年には村社に列せられ、同四十年には境内諸末社を合祀して今日に至る。
-雷電神社 佐波郡神社誌由緒-
建保三年赤石城主三浦之介義澄の創建。新田義貞社殿を修繕し戦勝祈願を行ない代々崇敬厚く、永禄三年赤石又次郎領土の安全を祈り、祭供料・神領を寄進。のち代々の領主社殿を修理し祈雨の祭典を行い奉幣があった。明治以後郷土の氏神として氏子の崇敬厚く、雷災除の神として信仰が厚い。
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唐澤山神社御朱印(栃木県佐野市)
唐澤山神社の神門手前の授与所で御朱印を戴く。
授与所には御守りなどが沢山並び、見ている間に御朱印は捺し終わっていた。
参拝時は日が暮れ始めた午後三時くらい。
なのに次々と参拝者が訪れる。
紅葉の時期と休日というのもあるのだろう。
境内の展望は良く、紅葉も綺麗なので年齢問わず楽しめる憩いの場となっているようだ。
神社Q&A
神社に関する質問をQ&A形式で管理人がわかる範囲でお答えします。
Q:氏神様や産土様ってよくわからないのですが。
A:氏神様は自分の祖神、親の親の親の・・・と辿っていくと、いつかは神様に辿りつきます。
そのたどり着いた神様が氏神様となります。
産土様は自分が生まれた土地、出生したときの住所を管轄している氏神様が産土様になり、俗に生から死まで産土様が管轄するとも言われます。
しかし、現在では氏神様も産土様も混同されていて、住んでいる住所により氏神様や産土様としているようです。
Q:自分の氏神様や産土様を知りたいのですが。
A:一番わかりやすいのは、町内会で年末に御札の注文があると思うのでその御札に書いてある神社が氏神様です。
産土様も生まれたときに住んでいたところの氏神様が産土様になります。
引越しなどで土地勘もなくさっぱり検討がつかない場合は、最寄の宮司さんがいる神社へ連絡して聞くと、大抵は管理している神社と連絡先を教えていただけます。
神社庁に連絡しても教えてくれるようですが、わからないことが多いです。
Q:子供が生まれたので初宮詣をしようと思います。
お宮参りはやはり大きな神社の方が良いのですか?
A:初宮詣(お宮参り)の基本は氏神様に挨拶します。
また同様に、帯祝い・腹帯や七五三なども氏神様に参拝するのが基本です。
宮司さんがいない兼務社では祈祷が出来ないので、氏神様に挨拶してから宮司さんのいる神社や崇敬する神社などへ参拝するのが良いのではないでしょうか。
Q:七五三はいつ、どこへ行くのが良いですか?
A:本来は11月15日に氏神様へ行くもののようです。
ですが今は11月中に行うことが多く、各神社も対応しているようです。
数え年か満年齢なのかというと、昔は数え年でしたが今は区別していないようです。
大きな神社やお寺で七五三をやりたいときは、氏神様に挨拶してから行くのが良いかと思います。
Q:厄年なのですが御祓いはした方が良いですか?
A:厄年は数えで男性が25歳・42歳・61歳、女性が19歳・33歳・37歳です。
本厄の前後が前厄や後厄になります。
厄年だから良くないことが起こるということはありません。
人それぞれです。
1つの節目、心身のメンテナンス時期だということでしょう。
なので御祓いは自分自身の気持ちの問題かと思います。
不安なら御払いをした方が良いでしょう。
Q:神社やお寺の古い御札が沢山あります。
燃えるゴミで出しても良いのでしょうか?
A:確かに燃えるゴミですが神社仏閣に感謝して、お返ししたほうが良いと思います。
神社でもお寺の、お寺でも神社の御札を預かってお焚き上げして戴けます。
年末年始にお返しするのが、忘れないで良いかと思われます。
また門松や注連飾り、御守りやおみくじなどもお焚き上げするものです。
各地で「どんど祭」なるお焚き上げのお祭りのときに出すのも良いかと思います。
Q:人形供養したいのですが引き取って戴ける神社はありますか?
A:近くの神社でお願いすれば引き受けて戴けるとは思いますが、断られることもあります。
連絡して断られた場合は、引き受けて戴ける神社を教えて戴くのも手ですね。
人形の御霊抜きをして戴ける主な神社
・玉村八幡宮(群馬県玉村町)
毎月10日に人形供養をして戴けます。
・所沢神明社(埼玉県所沢市)
6月第1日曜日に人形供養をして戴けます。
インターネットでも申し込みできます。
・有吉日枝神社(千葉県緑区)
随時受付で、インターネットでも申し込みできます。
・明治神宮(東京都渋谷区)
10月15日に最も近い日曜日に人形供養をして戴けます。
・八幡神社(横浜市旭区)
1月と6月に人形供養をして戴けます。
詳しくは神社まで。
Q:神饌料理を食べてみたいです。
どこの神社へ行けば食べられますか?
A:神饌料理が堪能できる神社
・古峯神社(栃木県鹿沼市)
・神楽坂赤城神社(東京都新宿区)
Q:延喜式内社とは何ですか?
A:967年に施行された延喜式の神名帳に記載されている神社のことです。
記載のある神社を式内社と言って、当時朝廷から重視されていた神社と云われています。
現在では消滅したり不明となっている神社もあり、全てが現存していません。
Q:一の宮とは何ですか?
A:その国で一番有力な神社のことです。
国司が任国内の神社を巡拜しなければならなかったので、その中でもっとも有力な神社を一の宮と呼ぶようになりました。
国によっては二の宮、三の宮等もあります。
明確な規定はなく、神社の盛衰や有力な豪族など時代によって異なる場合もあり、国によっては複数存在する場合もあります。
Q:神社での祈祷やお焚き上げ、出向いて頂く地鎮祭・上棟祭などで納める袋には何を書けば良いのですか?
A:奉納金の熨斗袋の水引は「初穂料」及び「お(御)初穂料」が一般的です。
古宮神社(埼玉県熊谷市)
天明宿星宮神社御朱印(栃木県佐野市)
星宮神社の社務所で御朱印を戴く。
待っている間、境内社を散策する。
旧社地の関係で境内社が北斗七星の並びになっている。
栃木県内には星宮神社という名称の神社が多いが、こういった星との繋がりがある神社は少ないと思う。
まさに星宮。
御朱印には天明宿と入っていて、かつては天明と呼ばれた地の総鎮守だそうだ。
天明釜と呼ばれる貴重な茶釜などもこの地で作られたもの。
鳥居や鋳物系が好きならば天明鋳物の鳥居は観ておくべきだろう。
徳川東照宮(群馬県太田市)
神社名:徳川東照宮(とくがわとうしょうぐう)
祭 神:徳川家康公 外十三柱
鎮座地:群馬県太田市徳川町396
世良田東照宮・徳川東照宮公式サイト
-徳川東照宮 新田郡神社誌由緒-
寛永年間正田隼人義長の創建なりと傳へ、明治五年村社に列せられ、徳川村総鎮守として村民の崇敬篤し。同八年従三位公爵徳川家達参拝せられ、同四十年十一月本社境内三社並に附近の神社六社(境内神社三社)を合祀せり。昭和七年三月、徳川家達公・徳川圀順公・松平頼壽伯参拝せられたり。
人丸神社御朱印(栃木県佐野市)
社務所で御朱印を戴く。
神社についてお聞きすると、拝殿の龍は夫婦ではなく親子龍だそうだ。
その記事が載ったコピーも戴く。
他にも神楽の楽譜などを戴き、記念にと神饌まで戴いた。
今まで色々なものを戴いてきたが、神楽の楽譜は初めてだったので嬉しい。
実はいつかは神楽を覚えたいとも思っていたりする。
天井絵のことを聞くと、どうぞ上がってご覧になってくださいとのこと。
撮影許可も戴いた。
拝殿内は天井絵や絵馬などが素晴しく、観ていて飽きない。
拝見する場合は社務所で声をかけた方が良いだろう。
ちなみに神饌の中身は紅白の砂糖菓子。
ホットケーキにしてありがたく頂戴した。
瑳珂比神社(群馬県伊勢崎市)

神社名:瑳珂比神社(さかいじんじゃ)
祭 神:倉稲魂命
配 神:火産霊命 健御名方命 素盞鳴命 大物主命 菅原道真命 鎮西八郎為朝命 誉田別命 大日靈命
鎮座地:群馬県伊勢崎市境493
駐車場:境内に数台

-案内板由緒-
当社の創建は、戦国期に能登半島より小此木左衛門長光来り境他六ヶ村を領有した守護神として生国能登国の石動明神の分霊を境城内に奉斎した、大永年間(1521〜27)とされている。長光の子左衛門次郎は、正親町天皇の御代の元亀三年(1572)、武運長久を祈って稲荷の神像と石製の剣を奉納し、石剣権現と称した。後陽成天皇の天正十八年(1590)、小此木氏が当地を退去すると、郷民は当社を鎮守社と定め、石剣稲荷大明神と改めた。
後に那波・新田両郡の境にあるため境村となり、後光明天皇の正保四年(1647)に例幣使街道が開設され、宿場町となると次第に町並みも形成され慶安年間(1648〜51)には境町となった。
桃園天皇の宝暦十一年(1761)拝殿が造営され、後桜町天皇の明和三年(1773)社前に挿花絵馬(境町最古の絵馬)が奉納され、光格天皇の享和元年(1801)には氏子の発起により現在の社殿が建立されている。その後も神域は整備され、明治七年には村社に列せられた。明治四十年九月に町内諏訪神社境内末社菅原神社・八幡宮疱瘡神社、八坂神社、稲荷神社・神明宮・琴平宮・秋葉神社を合祀し、現在の瑳珂比神社と改称して今に至る。
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朝日森天満宮御朱印(栃木県佐野市)
社務所で御朱印を戴く。
前回参拝したときは宮司さんが不在で戴くことが出来なかった。
達筆な字に御朱印の絶妙な朱の色合いがとても気に入っている。
宮司さんが不在のときは、予め書いてある御朱印を戴くことができるようだ。
境内には遅めの七五三で参拝する集団。
拝殿前で集まっていたので授与所へ行くと、その集団も授与所へ。
人に囲まれるとやはり落ち着かないので再び社殿へと向かう。
おみくじを引きたくて参拝したときに戴く。
筆塚の周辺を散策していたら耳元でブーンと羽の音が。
蜂は大の苦手なので慌てて逃げる様を、カップルが笑いもせずに見ていた。
御朱印を戴くと、朱の色が濃くなっていた。
朱肉を新しいものに替えたのだろう。








































